「ダメなものはダメ」と
訴えることは必要である

 同じ年、世の中をあっと言わせた下関の通り魔事件も同じく、「被害者からの復讐」だった。

 犯人の男は建築設計の仕事を志していたが挫折。その後、ニュージーランドへの移住を夢見るが、英会話が上達せず、資金もなく諦めることに。その後、家族に借金を申し込んだが断られたことで、「ただでは死ねない、社会にダメージを与えて死のう」と思い立って、レンタカーでJR下関駅に突っ込んで次々と人を跳ね飛ばした後、車から降りて、無差別に包丁を振り回した。

 5人の命を奪った男は、自分のことを「社会から疎外され続けてきた」と述べている。

「通り魔」には、こういう強烈な被害者意識を持つ者が少なくない。「やられたらやり返す」ではないが、明確に自分自身を社会から孤立した被害者だと認識して、その反撃や復讐のために、何の関係もない第三者を襲っているのだ。

 犯人に対して「死ぬなら1人で死ね」という非難を控えるべきだと主張の根底には、岩崎容疑者のような人たちに「孤独」や「生きづらさ」を感じさせる社会が悪い、という考え方が見え隠れする。だから、社会全体が他人を思いやれるようになれば、こういう凶行も自然と消えていくというのだ。そのような考え方は全く否定しない。

 が、その一方で、このように無差別に他人を襲うような凶行に、「自分は悪くない」「自分は頑張ってきたのに、報われない社会が悪い」という、強烈な被害者意識が影響を及ぼしているのも、紛れもない事実なのだ。

 これを踏まえれば、無差別殺傷を防ぐためにやるべきことは、「通り魔予備軍を刺激するとよくないからお口にチャック」ではない。実際に「被害者」である側面もあるかもしれないが、やっていいことと悪いことがある。「ダメなものはダメ」ということを強く訴えなくてはいけないのではないか。

 どんなに苦しくても、どんなに生きづらくとも、未来のある子どもたちや、何の罪もない人たちの命を奪っていい理由などない。「死刑になりたかった」「全てを終わらせようと思った」などなど、言い訳はいくらでもできるだろうが、それらは全て自分勝手な妄言だということは、社会としてもコンセンサスを取っておかなくてはいけない。