「責任の所在」の追及の繰り返し

 次に、野球とその担い手のストーリーとスタッツは、ソープオペラ以上に感情的だ。スポーツは、予測と不測の事態との絶え間ない緊張を原動力とした競争だ。よく知るものほど気にかかるのは世の常だし、ソープオペラが“オペラ”と呼ばれるのは演者と視聴者がどちらも大げさだからにほかならない。スポーツは“我ら”と“彼ら”の対決だから、ソープオペラ以上に対立の構図が強まる。勝者と敗者のコントラストもさらに鮮明だ。ファンの帰属意識が強いほど、チームへの入れ込み具合も深まる。リードした、リードを奪われた、ホームランを打った、三振に切って取った、試合に勝った、負けた……選手と観客は果てしない感情のジェットコースターに乗り、声とジェスチャーでそれを表現する。カメラマンとテレビのクローズアップ映像がそれを煽る。

 さらに、野球のような中断と再開による“継続するスリル”を構造的に持つスポーツでは、感情はいっそう揺さぶられる。サスペンスは、ルールにのっとった枠組みという確実性と、すべての行動の結果がまったく予測不能であるという不確実性の絶え間ない綱引きによって生じる。打者がバッターボックスに入って投手と対峙する。すべてはルールブックで指示されているとおりだ。グラウンド上とスタンドの全員が、その場面の枠組みを瞬時に、完璧に理解する。ところがそのあと訪れる場面、つまり投手がボールを投げたあとに何が起こるかはまったくわからない。次の瞬間に待っているのはストライクか、ヒットか、ファウルか、ボールか。スポーツではあらゆる場面で次の展開が予測できない。そうした絶え間ないサスペンスがメロドラマ性を強める。打球が内野手のあいだを抜け、バッターが悠々と一塁へ到達することもあるだろう。その場面は完全に理解できるもので、ルールにものっとっている。ところが次の展開はまったくわからない。これはあらゆるスポーツの絶対的な性質だ。かならず公式のルール(グラウンドへ出るのは各チーム9人、3アウトで一イニング、ピッチャーはマウンドから投球し、五角形のホームプレートの先端までの距離は60フィート5インチ)があり、それがきっちりした枠組み(またスポーツの“意味”)を成している。ところが、スポーツは常に現在進行形の競争でもある。勝敗はおろか、細かな部分の結果を知ることすら不可能だ。スポーツのサスペンスは、そうした行動の枠組みが完全に既知であることと、その結末がまったくの予測不能であることの落差から生まれる。
 スポーツが本家以上にソープオペラ的である第三の理由は、ローズとフリードマンが言うところの「モラルのマニ教」、つまり過剰な善悪の二元論にある。

 メロドラマと同様、スポーツのハイライトは個人の苦闘と集団の緊張、モラルの対立だ。感情が極端に誇張され、対立する勢力が争う。スポーツはすべからく、この“モラルのマニ教”の繰り返しである。両チームのヘルメットがぶつかり合う試合開始時の映像も、チームカラーと選手の動きの視覚的なコントラストも、両チームの選手や監督の苦悩を捉えたクローズアップ映像が交互に延々挿入されることも。審判団でさえ、そうした対立の調停者として視覚的に規定されている。白と黒の縞の制服は、対立勢力の“客観的な”中間者としての立場を象徴している。

 ソープオペラにも善悪の色分けはあるが、スポーツはそれよりはるかに明確な“争い”だ。だからこそ行動や結果に強烈な感情が乗り、正義感に基づいた野心が生まれる。「勝ちたい」が「勝たなければ」に変わる。俺たちいい者は勝つべきで、お前たち悪者は負けるべきだ。我々の名誉は守られなくてはならないし、努力と才能は報われなくてはならない。選手、球団、観客、さらに一部のメディアは、そうしたモラルに沿って協力する。

 その連携は強固であると同時に脆弱でもある。それは、根本的に不確かなものの責任をどうにかして誰かに負わせようとするからだ。藤田監督は前年に続く最下位フィニッシュがちらつくなかで解任された。しかし成績不振は監督のせいなのか。もっと言うなら、どの程度、またどの部分に関して、監督は責任があったのか。

 1996年のプロ野球は一シーズン135試合で、そのすべての試合で、3時間にわたっていくつもの行動が発生する。キャストも多岐にわたり、合計約30人以上の選手が出場し、2人の監督と4人の審判団が決断と判定を下し、75回以上の打席が訪れ、200球以上の球が投じられる。当然、勝敗は重要だが、その要因は恐ろしいほど判然としない。勝負どころでの三振に、劇的なホームラン、微妙な判定はどんな試合にもあり、選手やメディア、ファンはそうした場面を指して勝敗の分かれ目だったと口にする。ところが社会学では、明確なターニングポイントに見えるものも、実はそれまでの道のりの帰結にすぎないという考え方をする。しかも野球では運も絡む。天気に芝の凹凸、風。確かなことは誰にも言えず、次の日にも試合がある以上、議論はすぐ下火になり、メディアは次の記事を準備し、ファンは球場を再訪する。チームの勝敗は絶対の事実としてはっきりしている一方、勝因や敗因は絶対的にはっきりしない。

 それでも感情やモラル、金銭などが試合に懸かっている以上、判断せざるをえない。これから見ていくとおり、タイガースのスポーツワールドは人類学者のマックス・グラックマンが言うところの「責任の所在」の追及の繰り返しであり、チームとフロント、オーナー、メディア、ファンは、その終わりなき不毛な議論に引きずり込まれていた。

 ゆえに、この世界には“我ら”タイガースと“奴ら”ジャイアンツの対決だけでなく、内部分裂がある。その一つが、メディアとファンの中で続く“猛虎”と“ダメ虎”の対比だ。かつての誇らしく力強い猛虎が、貧弱でどうしようもないダメ虎に変わってしまったことは疑いようがない。しかしその原因となると、とたんに意見が割れ始める。

 まとめよう。言いたいのは、阪神タイガースは複数のエピソードが積み重なったスポーツワールドだということだ。極端な感情の繰り返しからなるメロドラマであり、ドラマ性を高める仕掛けとして、サスペンスとモラル、そして責任の所在の不確かさがある。阪神タイガースほど緻密な世界を持つチームも、同時にこれほどおもしろいソープオペラを見せてくれるチームも多くない。そこで再び、最初の謎が改めて浮上する。タイガースが関西3球団の中で、いや、プロ野球全球団の中でこれほど際立っているのはなぜなのか。(次回に続く)