本田宗一郎
 本田宗一郎は過去の習慣や因習にまったくとらわれない人物だった。自動車の修理工として仕事を始め、その後、長年にわたって培われてきた日本的な社会制度、いわゆる学閥を無視して、誰の助けも借りずに独自に事業を拡大した。

 本田技研は1948年に株式会社となり、その1年後、最初の本格的オートバイ、ドリーム号を完成させた。成功に次ぐ成功だった。

 1959年、同社は日本でトップのオートバイメーカーとなり、同時にそのモーターサイクルチームが、マン島TTレースでチーム優勝を飾る。その同じ年、初めてアメリカでホンダ製オートバイを販売、その2年後には、他のブランドを押し退けて販売第1位の企業になっていた。さらに1960年代には四輪の自動車製造に進出する。

 1992年に本田が他界するまで、同社は世界最大のオートバイメーカーの地位を維持し続け、同時に、有力自動車企業のなかでも国際的に高い評価を定着させている。

生い立ち

 1906年、静岡県の小さな村、光明村に生まれた本田宗一郎は、小さいころから鍛冶職人の父親を手伝っていた。15歳のとき、きちんとした教育も受けないまま、本田は仕事を探しに東京に出た。

 自動車の修理工場で見習い工の職を得たとはいうものの、修理工場の主人から押しつけられた仕事は子守だった。これに落胆して故郷に帰ると、6ヵ月もしないうちにもとの修理工場に呼び戻された。今度はそこで修理工として6年間働く。その後、再び故郷に帰り自動車の修理工場を始める。22歳だった。