ほぼ幹事 あ、任天堂の内定はもらっていたんですか?

作曲 医療機器メーカーと任天堂を受けました。任天堂の募集要項に「おもちゃの開発」とあって、おもちゃは気楽そうやなぁと思っていたら先に決まったので任天堂にしました。1980年のことです。

ほぼ幹事 その頃の任天堂といえば、京都出身なのでよく覚えているのですが、京阪沿線から見える「花札・トランプの任天堂」の看板の会社のイメージです。

作曲 ちょうど「ゲーム&ウォッチ」が出た年です。いきなり約20人くらいの開発部署に放り込まれて、「基盤の設計せい!」と言われ、古本屋で技術書を買い込んで必死で取り組みました。2年目で業務用、アーケードゲームのドンキーコングやスーパーマリオの開発に関わりました。

ほぼ幹事 まさかその後、世界的な大ヒットを生む現場にいるとは思わないですよね。

作曲 その業務用のゲームが絶好調の時に、時の山内溥社長の指示で撤退。次は家庭用をやれ、でした。開発に伴うリクープの話は全くなく、真実はどうだったかわかりませんが、先輩から「会社から1人あたり月3~4万円の研究費が出てるから」と言われ、自由気ままに電子部品を買い漁り、本当に自由に勉強も含め研究開発に取り組んでました。そしてファミコンが生まれました。

 今でこそゲームミュージックの創生期にいたといわれ、こないだもNETFLIXのドキュメンタリー番組の取材を受けましたが、自分の仕事は、会社の商品開発ということで、音楽を作っている、作曲をしているとは全く思っていませんでした。多分、プログラマーとしても、高いレベルではなかったと思うのですが、そのことが逆に独特な音楽の質を生み出すきっかけとなったと思います。また、中途半端が功を奏したんでしょうね。

ほぼ幹事 と言うものの、今や世界中に作曲の田中宏和さんのゲームミュージックファンがたくさんいるわけじゃないですか。いつ頃からゲームを通じて送り出すご自分の音楽について意識されました?

作曲 30歳くらいでひょっとしたら影響力があるのかなと思いはじめました。「MOTHER」の時も糸井重里さんや鈴木慶一さんという人たちのプロの現場に入らせてもらって、商品を完成するサポート役という感覚でした。

60歳にして
フジロックにデビュー

ほぼ幹事 作曲の田中宏和さんにとっての転機とは、いつでしたか?

作曲 やはり任天堂を辞めたあたりでしょうね。1996年、39歳の頃ですね。ポケモンの石原プロデューサーから「アニメの音楽を作ってくれませんか?」と言われて、やってみたら大ヒットしました。2年後、山内社長に「辞めます」と言いにいったら、社長室に貼ってあったポスターを指差して「あの音楽をやってんねんな!」と言われました。

 任天堂の強さは、京都の町外れの中小企業の野生の強さだと思いますね。のらりくらりとした自由さと思いきった決断力がある。優れたゲーム工房としての強さは、今でもDNAとして残っていると感じますね。

ほぼ幹事 主にポケモンのCGモデルおよびカード開発に携わる企画制作会社の社長として、十数年経営に携わっていらっしゃいます。振り返ってみてどうですか?

作曲 ほぼ運ですよ(笑)。たまたまファミコンができる前の任天堂に入って、その後ポケモンに出合った。どちらもこんなに世界的に広まると思う気持ちは当初はゼロで、こんなに大きくなりました。

ほぼ幹事  2010年頃から作曲の田中宏和さんは「CHIP TANAKA」として、世界のクラブシーンで流れ、踊らせる音楽を送り出されています。去年は60歳にしてフジロックにデビュー、海外公演も成功させられました。