The Legend Interview不朽 第12回 河合良成氏写真:国立国会図書館デジタルコレクション

 1955年5月18日、通商産業省(現経済産業省)の自動車課による「国民車育成要綱案(国民車構想)」が明らかになり、日本中の話題になった。一定の要件を満たす自動車に対して、国がその製造と販売を支援し、普及を促すという内容だ。

 ドイツでは1934年のベルリンモーターショーで、アドルフ・ヒトラーが「国民車」(ドイツ語で「フォルクスワーゲン」)計画を提唱し、自動車設計者であるフェルディナント・ポルシェ氏によって開発が進められた歴史があるが、まさに「日本版フォルクスワーゲン計画」である。

 同構想では「最高時速100km以上を出せること」「乗車定員4人、あるいは2人と100kg以上の荷物を乗せられること」などを基本的な要件とし、工場原価15万円以下・販売価格25万円以下などの規定も示された。

 まだ高速道路もない時代に、時速100kmというのは想像の域を超え、それを25万円で提供するというのも夢のような話だったが、庶民が多少頑張れば購入できる現実的な価格(55年の大卒初任給は11万円)を提示したことで、一気に話題をさらったのである。

 ところが自動車工業会は、特定のメーカーを優遇する政策に反対の意を示し、何よりコスト的に不可能と主張し、要綱の実施には否定的な姿勢を明確にした。
 
 その一方で、一躍注目を浴びたのが小松製作所(コマツ)だった。55年12月、当時ダンプカーなどで自動車の生産に乗り出していたコマツが、小型車の開発も準備していることを発表したのである。しかも、ドイツのポルシェ氏に基本設計を依頼し、通産省の国民車構想に沿ったスペックを備えて30万円で提供する計画を打ち出した。さらにそれをトヨタ自動車販売を通じて販売するべく、交渉していることも明らかになった。

 当時、トヨタ自動車は、トヨタ自動車工業が生産を、トヨタ自販が販売を担当する2社分業の体制を取っており、両社は経営方針の違いなどからギクシャクした関係だった(82年に再合併)。トヨタ自販が、トヨタ自工を差し置いてコマツと交渉を進めていたというのは、まさに当時の“工販”の関係を象徴する出来事だった。というのも、トヨタ自工は独自に大衆車の生産計画を進めていたからだ。

  1956年3月10日号には、注目の的だったコマツ社長の河合良成(1886年5月10日~1970年5月14日)のインタビューが掲載されている。河合は、農商務省の元官僚で農林次官を務めた後、戦後に第1次吉田内閣の厚生大臣となった人物。47年からは経営不振だったコマツの社長に就任し、再建にあたっていた。

 その河合は、「通産省の25万円国民車案が出た。既存の自動車業者は、そんな安いものはできないと引き下がった。私は25万円は難しいが、30万円前後ならできるという確信の下に、やろうという気になったのです」と、まさに意気軒高。その具体的な計画を披露している。

 しかし結局、国民車構想は幻に終わった。政府支援の下、特定の車種を集中生産するという政策は取られず、その後は、58年3月に発売された“てんとう虫”の愛称で知られる富士重工業(現SUBARU)の「スバル360」や、トヨタ自動車の「パブリカ」(61年発売)、「カローラ」(66年発売)、日産自動車の「サニー」(66年発売)などが国産の大衆車として定着していった。

 一方、コマツは62年に、富士自動車(1948年創業の自動車メーカーで、富士重工業とは無関係)を傘下に入れ、自動車業界参入への意欲を捨てなかったが、事業としては大成せず、70年代には建設機械に専念することになる。そして現在、コマツがブルドーザーや油圧ショベル、フォークリフトなど建設機械の世界的メーカーなのはご存じの通り。自衛隊向けの装甲車も製造している。これらの“車両”のエンジン、トランスミッションなどは、今も自社開発である。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

余生を国民車の実現に

1956年3月10日号記事
1956年3月10日号より 拡大画像表示

──この頃、天下を騒がしている国民車のことを、お伺いしたいのですが。

河合 なんでも、ざっくばらんに申しましょう。

──河合さんが最近、卒然として国民車を唱道されたばかりでなく自分でやろうというお気持ちになった真意を、一つお聞きしたい。

河合 私も今年は古希でしてね。“あえて老朽をもって残年を惜しまんや”という言葉のように私も余生を、一つ国民の喜ぶことをしたいと、念願しているのです。

 それには、国民に夢と希望を与えることが、非常に大事だと思うのですね。最近ミキサーや電気洗濯機が出まして、非常に国民を喜ばせている。しかし国民の一番大きな夢は、自動車を持ちたいということでしょう。ことに青年層には甚だしい。

 一体、自動車がなかったとしたら、生活がどれくらい停滞したか。これは、私の体験から確言できる。これが、私の国民車というものに考えを持った原因なんです。

 そこへ、突如として通産省の25万円国民車案が出た。既存の自動車業者は、そんな安いものはできないと引き下がった。私は25万円は難しいが、30万円前後ならできるという確信の下に、やろうという気になったのです。