ここで言う蘇州と広州とは、一都市としての蘇州と広州ではなく、エリアとしてのそれだ。後に「珠江デルタ経済圏」「長江デルタ経済圏」という固有名詞が生まれたとき、私は地団駄を踏んだ。「ネーミングで負けた」と悟ったからだ。しかしこの番組では、香港の経済的地位がますます低下していくであうことを、真正面から容赦なく指摘できた。

 私は、香港返還5周年の2002年、月刊誌『論座』に「香港沈没」というテーマの長い文章を寄稿した。

 その文章の中で、2001年9月、香港に対する朱鎔基首相(肩書は当時)の批判を取り上げた。朱首相は訪問先のアイルランドで香港問題に触れたとき、「(香港の行政当局は)議論ばかりして決断しない。決断しても行動に移さない。一旦決めたら、全力をあげて実行すべきだ」と容赦なく香港を批判した。

 起業精神が薄れゆく事実を見て、香港の若者の人生進路にも心配の目線を送った。香港人の勤勉さと努力に心底敬意を払ってきた私は、2002年11月中旬に発表された香港中文大学のリポートに驚いた。香港の若者で、起業して「社長の肩書を持ちたい」という人はわずか3.4%に過ぎず、調査対象の37ヵ国・地域の中で33位だったというのだ。対照的に、かつて会社を起こす自由さえなかった中国本土は12%。タイ、インドに次いで3位となる高い意欲を見せた。

他人の助けを仰がなければ
ならない香港が悲しい

 香港は2003年初めまで、深センとの通関窓口を24時間開放するといった改革措置に応じようともせず、広東省との連携の機会を逸してしまった。こうした事例からもわかるように、改革の最前線に立つ香港の姿はもう見られなくなった。

 香港は中国に返還された直後、アジア金融危機に見舞われて経済がずっと低迷していた。香港の自力での復活がままならない状況を見かねた中国政府は、とうとう香港の救済に乗り出し、同03年7月から本土の観光客を大量に送りこむようにした。その結果、02年には香港を訪れた本土観光客は683万人しかいなかったにもかかわらず、08年は1680万人へと大きく増えた。「自由行」と親しまれるこの個人旅行が、いまや香港経済を支える大きな柱となっている。