雲西寺(大分) 投稿者:@9Gz3yxE34eVnpNP [2019年7月9日] 

「自分はそもそも何者でもない」という気づき

 今回は、ダイナミックな文字が特徴的な大分県中津市にある雲西寺の掲示板です。小さくてよく見えないかもしれませんが、左端に「我に執(とら)われてるぞ 釈尊」と書かれています。

 「我」に対する執着に関していえば、自身に対する執着である「我執(がしゅう)」と所有欲である「我所執(がしょしゅう)」があります。

 この2つの執着が大きな苦しみをわたしたちにもたらしています。ところが、自分自身の「身体」が存在する限り、「我」という感覚がなくなることはありませんし、「執着」が消えることはありません。

 『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』の中に、鬼同士のケンカの仲裁をさせられる旅人のお話があります。

 旅人は鬼同士が死骸の所有を巡って揉めている状況に出くわしてしまい、仲裁を頼まれるのですが、当然のことながらうまく仲裁できず、前の鬼が大いに怒って、その旅人の手をもぎ取ります。後の鬼も怒り、旅人の手を抜き、足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで抜き取ります。前の鬼はそれを見て、そこにあった死骸の手、足、胴、頭を次々に取って旅人の身体に補い、とうとう旅人の身体は手も足も胴も頭も見知らぬ死体のものになってしまいました。いったい自分は自分なのか自分ではないのか、全く分からなくなった旅人はお寺に立ち寄り、「自分はいったい何者なのだ」と僧侶に尋ねた……というエピソードです。

 小さい頃にこの話を聞いて、当然のことながら非常に気持ち悪い話だと思いました。

 しかし、生物学者の福岡伸一先生の『動的平衡』(小学館新書)によると、人間の消化管の細胞は2~3日でつくりかえられ、1年も経過したころには自分自身を形づくっていた細胞などの物質がほとんど入れ替わり、物質的にいうとほぼ別人になってしまうそうです。

 つまり、わたしたちは怖い鬼に出会って手足を取られなくても、この旅人と同じように1年ほどで物質的にはだいたい入れ替わっているわけです。それにもかかわらず、感覚的には生まれたときからずっと「自分は自分である」という変わりない「我」の感覚を持ち続けています。

 福岡先生の説を借りると、「身体」は「流れ」であって、絶え間なく変化し続けています。その変化し続けている「流れ」の中で、勝手に自我の感覚を肥大化させ、執着して苦しんでいるのが私たちの姿ということになります。

 身体がある限り「我」の感覚がなくなることは絶対にありませんし、そこへの執着から、苦しみは必ず発生します。

 しかし、「自分はそもそも何者でもない」ということが分かっていれば、無駄な「我」への執着やそこからの苦しみが少しは薄れるのではないでしょうか。

 作家の伊集院静氏が著書の中で海外を旅して「自分が何者でもない」と知ることが大切であるとよく説かれています。確かに異国に一人でポツンと身を置いてみると、「我」を形成していたさまざまなものがたいして意味をなさない無用なものであったことに気づき、無駄な執着があったことを知ることができます。

 「我執」は自分の知らないうちにどんどんひどくなってきます。自己を内省して、いくつになってもそれをデトックスする行為を決して忘れてはならないと思います。

今年も7月1日より「輝け!お寺の掲示板大賞2019」がはじまりました。全国のお寺の掲示板作品を10月31日までお待ちしております!

なお、当連載をまとめた書籍『お寺の掲示板』が9月26日に発売されます。お手に取ってご覧いただければ幸いです。
 

(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)