母親は、痛みをこらえながらも仕事に復帰した。というか、入院中も、ベッドの上からスマホで社員に指示を出し、働き続けていたのだが。

「えっえー、どうして、この荷物がここにあるの」

 突然母親は、自分の傍に置かれた紙袋を見て、大声をあげた。その表情には、驚きと恐怖があらわれていた。

「何言っているのお袋、これは今さっき、2人で一緒に事務所に行って、持ち帰ってきた荷物だよ。お袋が『あの荷物、どうしても必要だから取りに行こう』って言ったんだよ」

 帰省したばかりで、お茶を飲む間もなく、母親の頼みで事務所と家を往復した男性は、困惑しながら答えた。

「そんなはずねぇ。あっそうか。事務員さんが気を利かして持ってきてくれたんだろ。そうだろ。お礼の電話をしないとね」

 スマホを取り出し、事務所に電話するが、相手とはまったく話が噛み合わない。当然だ。

 異変は続々とあらわれた。8年前の震災で亡くなった叔母(母親の妹)の名前をあげ、「お前は会ったことないから知らないだろう」と言うし、幼いころから家族で通った近場の観光地に連れて行くと、「いいところだなぁ、生まれて初めて来た」と幼女のようなあどけない顔で言う。

「お袋、これできるかい。俺の真似してみて」

 男性は、会社で産業医から教わった、「逆さキツネ検査」を試してみた。手指を使う影絵のキツネを用いる「検査用紙のいらない、認知症の簡便な検査」だ。非常に簡単な検査だが、現場の医師たちの間では、早期発見に有効で、精度が高いと認められている。

 母親は、まったくできなかった。

歩けないけど運転はできる
こっそりと車を乗り回す母

 母親が、完全に隠居生活を送っている普通のおばあちゃんだったら、まだよかったように思う。だが、そうではなかった。年末に退院して以来、母親は、こっそりと車の運転も再開していた。