石坂泰三(1886年6月3日~1975年3月6日)は、旧制の府立一中(現東京都立日比谷高校)、旧制一高を経て、1911年に東京帝国大学法科を卒業し、逓信省に入省した。典型的なエリート路線だが、4年目に転機が訪れる。
1915年、当時の第一生命保険の社長だった矢野恒太に声を掛けられ、退官して矢野の秘書となったのだ。言うまでもなく、後継者として見込んだスカウトである。矢野は石坂に、欧米の生命保険事業を学ばせるための視察旅行を命じた。
かくして石坂は、入社から1年たった1916年から米国、英国、ドイツを歴訪する旅に出る。もっとも、第1次世界大戦の激化によってドイツには行けず、2年の予定だった“外遊”は1年余りで終わった。それでも、当時としては得難い経験を積んだ。
そして1938年に第一生命の社長に就任。1947年、60歳になるまでその任を務めた。入社当時、第一生命は業界トップ10にも及ばないポジションだったが、この間でトップ規模にまで成長させたのである。
さて第一生命を辞した石坂だったが、1948年に帝国銀行(現三井住友銀行)の佐藤喜一郎頭取と東京芝浦電気(現東芝)の津守豊治社長から、東芝の再建を請われた。
戦前の東芝は、最盛期には従業員10万人を超え、80もの工場を持つ国内最大の電機メーカーだったが、敗戦を機に仕事が激減、倒産の危機に陥っていた。大規模な人員整理が不可避だったが、当時の東芝は共産党系の過激勢力による「革命の拠点」となっており、大規模な労働争議が常態化していた。労使が激突し、再建は困難を極めていた。そこで、石坂に白羽の矢が立ったのである。
1949年4月に東芝社長に就任した石坂は、粘り強く労働組合と交渉を続け、その年の暮れには6000人もの人員整理を実現する。また、1950年に朝鮮戦争が勃発して、特需ブームという追い風が吹き、東芝の業績は急回復。同年下期には黒字を達成した。
今回紹介するのは、そんな中での「週刊ダイヤモンド」1950年10月11日号に掲載されたインタビュー記事だ。
石坂はこの年、2カ月余りに及ぶ欧米視察を敢行している。8月に帰国して早々にこのインタビューに応え、海外経済の実態と、そこから見えた日本の産業の課題について語っている。
戦後の日本経済が復興していくための喫緊の課題であり目標だったのは、「生産性向上」と「国際化」だった。まさに、このインタビューもそれがテーマとなっている。
そして、その二つの目標を達成することで、日本は高度成長期に入っていく。その過程において石坂は1955年に日本生産性本部の初代会長、翌年には経団連2代目会長に就任し、財界のリーダーとして経済大国への道を先導していった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
敗戦で目標を失った日本
全ての土台が壊れている
――今度の視察コースは。
6月の初めに飛行機でたちまして、マニラ、カルカッタ、カラチを経てローマへ着き、一晩泊まってパリへ飛びました。パリから次はジュネーブに向かい、そこに2週間ほどいるうちに、スイスの工場を見たし、チューリヒからドイツのデュッセルドルフに飛び、そこを中心にした西ドイツの工場地帯を見まして、再びパリへ帰ってきました。初めは国際商業会議所の用事、次は自分の仕事の関係で工場を歩きました。そしてパリからロンドンへ、ロンドンからニューヨークへ飛び、繁栄の絶頂にあるアメリカを見て8月半ばに帰ってきました。
――ところで実際に海外の状況を見てこられて、改めて日本の産業を見直すと、どういう感想が浮かぶでしょうか。
僕が帰朝して感じたのは産業に限らず、この国の全ての土台がぐらついていることだった。その意味から言うと、地盤が壊れておると思ったね。その壊れ方を何と言ったらよいかな、国民の向かうべき共通の目的が失われているための地盤崩壊とでも言おうか。とにかく、いままでは、日清戦争のときでも、日露戦争のときでも目標がハッキリしていた。良い悪いは別として、国民の目指す当てが明瞭にあった。それが敗戦で、すっかり壊れてしまったので、全ての基盤がぐらついている現状である。そのぐらぐらした地盤の上に、産業があり、政治があり、教育があり、宗教があるという状態で、全てが誠に頼りない。これは、僕の非常にドグマティックな考え方かしれないが、とにかく、僕は帰朝してその点を強く感じたんだ。
その結果、どういう現象が見られるかというと、例えば教育方面では、新聞でご覧のごとく父兄の厄介になって大学に行っている生徒が、試験を受けないとか、ストライキをやるという騒ぎを起こす。
また「恋愛は自由だ」などという一面を見ても、こないだのように教授のお嬢さんが強盗と一緒に駈け落ちし、捕らわれた後でも、やはり愛情は変わらないと、こう言う(解説者注:1950年に起きた「日大ギャング事件」。日本大学の運転手が職員の給料を強奪した後、恋人だった日大教授の娘と逃走した事件。逮捕時に犯人が「オー・ミステーク!」と叫んだことから「オー・ミステーク事件」とも)。何かそれが非常にハイカラでいかなる批判を食らっても、自分は敢然愛のために死せんというような考え方にもなる。