写真提供:東芝未来科学館、Takahisa Suzuki

 取引先ランクは「プラチナ」──。東芝の主幹事を長年にわたって担ってきた野村證券は、東芝をトヨタ自動車と並ぶ最上位に位置付けてきた。創業から140年を超える歴史を誇り、金融業界からも厚遇を受ける名門の突然の転落劇。ものづくりの栄光と共に歩んできた1900年代との落差はあまりに大きい。

 そもそも東芝は二つの源流を持つ。一つは1875年に日本初の電信設備メーカーとして設立された田中製造所という「重電」の流れ。創立者の田中久重はからくり人形の新たな仕掛けを次々と考案し、「からくり儀右衛門」の異名で知られた天才機械技術者だった。

 もう一つは、「日本のエジソン」と称された藤岡市助が祖となる。藤岡は1890年に日本初の白熱灯製造会社である白熱舎(東京電気の前身)を創設して「エレクトロニクス」の流れを築いた。

 1930年には田中製造所から名を改めた芝浦製作所が日本初の電気洗濯機、さらに電気冷蔵庫の開発に成功する。39年に両社が統合して東京芝浦電気(84年東芝に改称)となった以降も、60年の日本初のカラーテレビ受像機、85年の世界初のノートパソコンなど、さまざまな「第1号製品」を世に送り出し、産業界にその名を刻んできた。

財界にも人材を輩出

 そんなものづくりの名門は財界にも人材を送り出してきた。

 東芝社長を経て56年に第2代経団連会長に就任した石坂泰三は4期12年会長を務め、当時の首相、鳩山一郎に公然と退陣を迫ったこともあった。彼の活躍がきっかけで経団連会長は「財界総理」の別名を持つようになったという。

 第4代会長に就いた土光敏夫は「ミスター合理化」として行政改革を推進。質素な生活で「メザシの土光さん」と国民に親しまれた。

 その後も東芝首脳は財界活動に熱心に取り組んできたが、3人目の「財界総理」は生まれていない。

 経団連副会長を務めた西室泰三や西田厚聰は会長の椅子への執着が強いとされたが、「東芝首脳の過度な財界活動が自社のガバナンス不在につながったのでは」とうがった見方をする財界関係者もいる。