北斎の「冨嶽三十六景」《神奈川沖浪裏》「冨嶽三十六景」《神奈川沖浪裏》(1831年頃作品)〈所蔵:茂木本家美術館〉 北斎の代表作のひとつといわれる本作品は、「三役」と呼ばれる世界的にも人気のある作品だ。海外の芸術家に多々影響を与えた北斎だが、それは絵画に限らず、音楽の分野にまで及んだ。フランスの作曲家・クロード・アシル・ドビュッシー(1862~1918年)は、自らの代表作・交響曲「海」を作曲、その楽譜の表紙には、本作品を用いているほどだ

日本のみならず、ゴッホやマネといった欧州の天才画家たちにも大きな影響を与えた葛飾北斎。90歳まで生きて、引っ越しの回数は93回、汚部屋に住みながら約3万点もの作品を残した型破りな巨匠の生涯とは――。(フリージャーナリスト 秋山謙一郎)

90歳まで生き3万点を残した
北斎を襲った人生の「荒波」

葛飾北斎、汚部屋に住み93回引っ越した無頼派を成功に導いた「人生の荒波」「冨嶽三十六景」《山下白雨》(1831年頃作品)〈所蔵:茂木本家美術館〉 「冨嶽三十六景」《神奈川沖浪裏》《凱風快晴》とともに「三役」のひとつとして著名な本作品は、晴れ渡った山頂とは裏腹に、山の中腹では雲が取り巻き、山裾では激しい雨が降り、稲妻が走っている様子がうかがえる。異なるさまざまな天候をひとつの画面上に描くことで、北斎は何者にも影響を受けない泰然とした富士山を通して長い人生行路を旅するにあたって、「こうありたい」という理想を描いたのではないだろうか

 無頼派、無頓着、破天荒――。こうした生き方をして功成り名遂げた人物は、昔も今も数多い。だが、はたして彼らは本当にそんな生き方を望んだのだろうか。案外、内心は平々凡々な庶民としての生き方を望んでいたのではないだろうか。

 ときに荒波にたとえられる人生の理不尽や厳しさから目を背けるべく、浮世から離れ、自分だけの世界に閉じこもる。これが結果として後世に評価される仕事へとつながった…、芸術、アカデミズム、ビジネスなどなど、そのジャンルを問わず、人生の逆境がその道での成功へと導いた例は時折、耳にする。

 アートの世界に目を向ければ、病に苦しんだフィンセント・ファン・ゴッホ、美術界の旧弊に悩まされたエドゥアール・マネ、そして葛飾北斎(1760~1849年)もまたしかり。

葛飾北斎、汚部屋に住み93回引っ越した無頼派を成功に導いた「人生の荒波」「冨嶽三十六景」《甲州石班沢》(1831年頃作品)〈所蔵:茂木本家美術館〉 構図の妙で知られる北斎作品のうち、本作品は、富士山の稜線の三角と漁師の体と、投げられた投網が作る三角形が相似形となっているところが秀逸だ。北斎作品を見るうえで外せない作品のひとつといえるだろう

 今年は、北斎の没後170年にあたる。その北斎が生まれた東京都墨田区にあるすみだ北斎美術館では今、「北斎没後170年記念 茂木家本家美術館の北斎名品展」(9月10日~11月4日)と題した展覧会が行われており、代表作のひとつといわれる「冨嶽三十六景」の《神奈川沖浪裏》が展示されている。

 低い視点から眺めた海、その海面では、まるでかぎ爪を思い起こさせる荒波が小舟を襲っている。遠くには小さくとも泰然とした富士山が佇む…。その筆は、まるで荒波のように襲ってくる人生における理不尽と、富士山のように、どんな困難に襲われても微動だにせず悠々と現実を受け入れたいという、描き手である北斎の思いが透けて見えてくるかのようだ。

 当時はもちろん、令和の現代でも、数え90歳まで生き抜いた北斎は長寿の人である。6歳で描きはじめて、19歳で師匠のもとに入門、90歳で息を引き取るまで、その人生のほとんどを絵に費やし、晩年に入ってもなお、絵描きとして現役であり続けた。

 世に知られた版画、錦絵のほか、挿絵や着物のデザインなど、浮世絵師として、現在でいうところのイラストレーターやグラフィックデザイナーという立場で大活躍した北斎の作品数は実に約3万点を超えるという。その北斎の収入源は、印刷物であれば出版元、肉筆画(いわゆる絵画)であればその発注者からの画工料、すなわち絵画制作料だった。