「見られているかもしれない」という恐怖
現代の哲学者フーコー……その口から、ベンサムというよく知る名前が突然出てきたことは単純に驚きだが、それ以上に衝撃的だったのが「パノプティコン」という言葉。それは教科書的にはベンサムが設計した刑務所の名前なのかもしれないが、僕たち生徒会にとっては特別なものを意味する。
それはもちろん―パノプティコン・システム。
生徒会最大の問題であり、「見守り君」という人型監視カメラの設置プロジェクトの正式名称だ。もっとも生徒会以外の生徒たちは、「見守り君」という呼び名は知っていても、正式名称の方にはあまり馴染みがない。だから、教室全体がざわつくようなことはなかった。
先生は、そのままパノプティコンの説明を続ける。それはかつて倫理から聞いたものと同じ説明であった。
刑務所の真ん中に高い塔が立っており、そこを中心にぐるっと囲むように牢屋が並んでいること。そして、その塔にいる看守からは囚人が丸見えだが、囚人からは看守の姿が見えない工夫が施されていること。
先生は黒板に絵を描きながら、パノプティコンの特徴を説明していった。
「ベンサムが発案したこのパノプティコンが画期的なのは、経済的にとても優れているところだ。というのは、囚人側からは看守の姿が見えないのだから、実は看守はいなくてもかまわない。囚人たちが、勝手に『見られているかもしれない』と思い込んでくれればよくて、『監視による矯正』はそれだけで十分に効果があると言える。キミたちだって、見られているかもしれない監視カメラの前で、モノを盗もうとは思わないだろう? だから、何も馬鹿正直に、毎日24時間分の看守の人件費を支払う必要はないわけである」
監視カメラというワードが出たところで、他の生徒たちもざわつき始めた。ようやく、いま先生が言っている刑務所のシステムが、自分たちの学校の「見守り君」と酷似していることに気づいたのだろう。
実際、学校には、こんな噂がある。
校舎に転がっている見守り君のうち、その大半は偽物であると。なぜなら、ネットの監視サイトで中継されている動画の数よりも、見守り君の数の方が圧倒的に多いからだ。だから、ほとんどの見守り君は、おそらくダミーだと思われる。が、しかし、それだって、いつ本物と置き換えられるかわかったものじゃないし、もしかしたらタイマー式で突然スイッチが入る仕組みなのかもしれない。
いずれにせよ、その「かもしれない」がある以上、見守り君の姿がそこにある限り、本物であろうと偽物であろうと、また、その監視カメラの向こうに人がいようといまいと、僕たちはそこに「他者の視線」を感じざるを得ない。たかが安物のぬいぐるみを、そこらにバラまくだけで、僕たちの意識が操作され、学校にとっての「正常者」に矯正できるのだから、たしかによくできたシステムだと思う。
「ようするに、パノプティコン―この『見られているかもしれない』という虚構を演出するベンサムの刑務所は、当時の人間が思いつく限りで、もっとも経済的で合理的な刑務所だと言ってよいだろう。そして、フーコーは、現代社会の構造がまさにこのパノプティコンと同じなのだとするどく洞察したわけだが―ここで時代を考えてみてほしい」
「フーコーが『監獄の誕生』を発表したのは、あくまでも1970年代のこと。まだ、ネットもスマホもSNSもなかった時代の話だ。これは私の考えだが、それから何十年も経ち、情報技術が進歩した今、パノプティコンはフーコーの予想を超えて、さらなる進化を遂げてしまったのではないだろうか?」
1970年代……僕がまだ生まれる前の話だ。たしかネットどころか、携帯電話やデジカメすらなかった時代だったはず。今となっては想像もつかないことだが。
次回に続く。