哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第3章を特別公開します。


 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。

 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?

死体解剖は幸福を生み出す行為?

 前回記事『副作用のない麻薬なら、どんどん使うべきか?』の続きです。

「さて、最後にもうひとつベンサムについて興味深いエピソードを紹介しよう。彼は医学の発展のため、死体解剖の奨励活動を行っている。死体の解剖なんて、今の時代では当たり前のことかもしれない。が、当時は違った。死体の解剖は、その当時において個人をもっとも侮辱する行為であった」

「なぜなら、当時信じられていた宗教には、まあ、キリスト教のことだが、『最後の審判』という思想があり、世界の終末が訪れた際には死んだときの姿のまま肉体が復活すると信じられていたからだ。だから、死後に自分の死体が切り刻まれるなんてことはもってのほか。実際、死体解剖は、絞首刑よりもさらに重い、死刑囚を対象とした刑罰のひとつでさえあった」

 「そんな時代背景の中、ベンサムは突然、市民全員に、死んだら医学の発展のため自分の死体を提供しなさいという主張を展開する。これは当時としてはものすごく衝撃的なことであった。もちろん、キミたちの中にも、今の話を聞いて顔をしかめた人もいるかと思う。誰だって、自分の肉親や恋人が、死後、医学の発展のためだからと言って、たとえば医学生の手術の練習台としてメスで切り刻まれるのは嬉しいことではないだろう」

「だが、ベンサムは、そうしたみんなの心理的抵抗さらには当時の常識をすべて無視して、そこに功利主義の考え方を持ち込んだ。その功利主義、つまりベンサムの快楽計算に従うならば、死体解剖はまったく問題のないものとなる」

「そもそも死んでいるということは脳が停止しているわけだから、快楽も苦痛も感じることはない。だとしたら、死体に何をしようが、幸福度は何も増減しないだろう。もちろん、死体を切り刻まれることで遺族は精神的に苦痛を感じるかもしれない。その点では、ハッピーポイントはマイナスだ」

「だが、それでもその解剖によって医学が発展するとすれば、いま生きている人間の苦痛を取り除くことに貢献できるわけだから、ハッピーポイントは大幅にプラスになるだろう。つまり、遺族の精神的苦痛を差し引いても、ハッピーポイントの合計値はプラス……。結論として、死体解剖はたくさんの幸福を生み出す行為であり正義だということになる」