哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第5章のダイジェスト版を公開します。
本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。
物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?
病気で苦しむ人から「自殺したい」と言われたら?
前回記事『自由主義者は「自由」のために、殺人を肯定する?』の続きです。
強い自由主義については、次の標語、合い言葉で理解するといい」と言って、先生は黒板に短い文を書いた。
『自由にやれ。ただし、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて』
ふむ。まさに、「人に迷惑をかけてないんだから、なにやってもいいでしょ」というやつか。
右隣をみると、今の話にたいして感銘も受けず、さも当然だというふうに涼しい顔をしたミユウさんがいた。
「では、殺される側がそれを望んでいた場合はどうなるのでしょうか?」
今度は、倫理が質問の声をあげた。
「なるほど。殺されたくない人を無理やり殺すのは論外だが、殺してくださいとお願いしてくる人にはどうすればよいか? この問いについて、あくまでも強い自由主義の定義に従うならば、答えは明白―『殺さなくてもいいし、殺してもいい、自由にしろ』だ」
「え!」
思わず声をあげてしまった。まさか倫理の授業中に「殺人許可」のお墨つきをもらえるとは思っていなかったから。
「正義くんには、どうやら過激な発言に聞こえたようだね。だが、相手が殺されたいと願っている以上、その人を殺しても自由の侵害にはならないと考えるべきなのだが……そうだな、ならば安楽死の問題について考えてみたらどうだろうか」
「たとえば、ある人が病気になり、回復の見込みもなく、ただ激痛だけの毎日が続いていたとして『自殺したい』と言い出したとしよう。果たしてこの願いは叶えられるべきで、それに協力した人は罰せられるべきだろうか?」
想像したくはないが、仮に病人の身になって想像してみる。
………………。
かなりキツイな……。まさに絶望的としか言いようがない状況だ。痛みに弱い僕としては、リアルに死にたいと願うような気がする。それなのに周囲が言うことを聞いてくれず、身体を縛りつけられて激痛のなか無理やり生かされるとしたら……なんだか僕という人間の尊厳を蔑ろにされた気分になる。
と、こうして考えてみるなら―本人が望んでいて、かつ仕方ない状況においては「死ぬ自由」「殺される自由」はあってもよさそうに思う。死ぬことが救いになることだってあると思うからだ。であるならば、その状況で、わざわざ僕の自殺に協力してくれる人がいたら……感謝こそすれ罰してほしいなんて思わないだろう。
しかし―
「いいえ、違います」と倫理は言った。