根津嘉一郎(二代目)・東武鉄道社長×五島昇・東京急行電鉄社長×堤清二・西武百貨店店長

 昨今、中小企業の深刻な後継者不足が話題に上ることが多い。その背景には、1960年代の高度成長期に20~30代で創業した経営者世代が、一斉に引退時期へ差し掛かっているという流れがある。

 同じように、時代をさかのぼれば高度成長期にも世代交代が一つの話題になっていたようだ。大正・昭和初期から戦後の激動期を駆け抜けた大物経営者たちが続々と鬼籍に入り、2代目が後を継ぐケースが目立った。

 今回紹介する64年7月10日号掲載の「“2代目3人男”の哀歓」と題された座談会は、大手私鉄グループの2代目という同じ境遇の経営者3人が一堂に会した異色の記事である。

 根津嘉一郎(2代目、1913年9月29日~2002年2月15日)は、根津財閥(東武鉄道グループ)の創設者、根津嘉一郎(初代)の長男。東京大学経済学部卒業後、東武鉄道に入り、父の秘書となる。40年、父の死去に伴い、東武鉄道の社長となった。本記事の掲載時、50歳である。

 五島昇(1916年8月21日~1989年3月20日)は、東京急行電鉄グループの創設者、五島慶太の長男。40年に東京大学経済学部卒業後、東芝を経て東急に入り、慶太会長の下に54年で東急社長となった。慶太が59年8月に他界した後は、強引な企業買収によって事業を拡大した父が残した“宿題”の片付けに追われた。記事掲載時は47歳である。

 3人目は、堤清二(1927年3月30日~2013年11月25日)。西武鉄道の前身となる武蔵野鉄道をはじめ不動産、百貨店、観光事業等を手掛け、西武王国をつくり上げた一方、政界でも活躍した堤康次郎の長男。東京大学経済学部卒業後、西武百貨店に入り取締役店長(事実上の社長)となる。記事が掲載される3カ月前に父の康次郎が急逝したのだが、その葬儀の喪主に選ばれたのは次男の義明(西武鉄道・コクド前会長)で、その複雑な家庭事情に注目が集まっていた時期でもある。このとき37歳と最も若い。

 多忙な3人を同時に集めるのは苦労したようで、座談会といってもまず根津が最初に会場入り。折しも、この1カ月前の6月1日に、東武百貨店は東急から東横デパート池袋店(後に東武百貨店池袋店別館)を買収したばかりだった。そのホットな話題から単独インタビューのようなかたちで、記事は始まる。

 その後、堤が遅れてやって来て、それぞれの“オヤジ”の思い出話などを披露する。ライバル関係にあると目されている東武と西武だが、そこは「大物の2代目」という共通項からか、思いの外和やかな雰囲気で話は進む。

 しばらくして根津が退席し、代わって五島が到着する。東武と西武は東京・池袋で百貨店で競合していたが、西武は当時、東急の牙城である同・渋谷への出店を計画中だった(68年開店)。東急は、池袋を東武に明け渡し、渋谷重視でいく方針を打ち出す中、両トップが顔を合わせるという興味深い展開となった。

 長い記事なので、上下に分けてお届けしよう。前半は根津と堤、後半は堤と五島の対談が中心だ。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

東武が池袋の東横デパートを
東急から譲り受けた理由

本誌1964年7月10日号
1964年7月10日号より 拡大画像表示

――今日はお3人に集まっていただきますが、それぞれ予定がおありで……。五島さんは小林米三氏(阪急電鉄、宝塚歌劇団などの創業者、小林一三の三男)夫人の葬儀で、東京―大阪をトンボ返りされて、間もなく出席されます。また、堤さんも少し遅れるとのこと。根津さんは早めにお帰りになるそうですから、口火を切っていただきます。最初に、池袋の東横デパートを譲り受けた問題から……。

根津 私鉄も孤立して争うというような時世ではないし、元来、東急と東武とは、別に争うようなものもありません。事業地域も離れているし、6号線と2号線の相互乗り入れが近づいてきまして、それを契機にして提携しようという話がだんだん盛り上がってきた。その一つの表れとして、東横デパートの池袋支店を東武に譲ってもらったわけです。