師匠と弟子の“幸せな関係”が蕎麦職人の間にはありました。

 上方に他店の亭主たちが味わいにくる蕎麦屋があります。大阪の名店から独立した「からに」です。蕎麦の深みを追う、高い目標を課した者が発する、そのオーラを浴びてみませんか。

(1)店のオーラ
退路を断った強さが凛と響く

 江戸の初期、上方から、饂飩屋がこぞって江戸に進出しました。饂飩屋は瞬く間に江戸っ子の人気を集めました。中期頃、蕎麦がその主役を奪い、市中には四千店余の蕎麦屋が生まれたそうです。老舗の虎ノ門「砂場」の屋号に、今でも“大阪屋”の看板があるのは、饂飩屋から蕎麦屋に転向した名残です。その頃から、上方は饂飩、江戸は蕎麦、との色分けがされてきました。

 が、今やその上方に蕎麦屋が群雄割拠しています。

 「大阪の蕎麦屋はハングリーです」と、「からに」の亭主の橋本さんは微笑みます。

 大阪の蕎麦人口は、増えてきているのかどうか、とまず質問してみました。

 橋本さんは、「東京の4分の1もないのではないか。だから、客を掴まえるためには必死にならざるを得ません」といいます。

 橋本さんは1年に1回は、東京の蕎麦屋巡りをします。多いときには10店舗を1日で回ったこともありました。それだけに東京の客の様子も見てきています。

多彩な占いの店と飲食店が並ぶ、福島聖天通り商店街の一角。店は古材やタイルを多用した、家庭のキッチンダイニングのようなオープンスタイルです。

 「からに」の屋号は、ハワイのプロサーファーの名を付けたものです。若い頃は、サーフィン好きのプー太郎だった、と橋本さんがいいます。

 枚方市に「天笑」という店があります。大阪で多少手打ち蕎麦が好きだという人で、「天笑」を知らないと “もぐり”といわれるくらいの有名店です。

 橋本さんは親に諭され、その「天笑」に28歳で弟子入りをしました。天笑一家とは家族同士の付き合いで、橋本さんも子供の頃から、主に可愛がられていました。

 「当初は、サラリーマンのようなものでした」橋本さんが振り返ります。

 サーフィンで鍛えただけあって、蕎麦屋の激務はそれほど苦にならず、淡々と1年ほどが経過しました。だが、結婚を前にしてその考え方を改めるときがやってきました。

 これだけの蕎麦屋で働いている幸運を、生かさない男がいるだろうか、と橋本さんは自問しました。

 そして、“勤め人から職人へ”大きく舵を旋回したのです。“もう後がない”そんな心境だった、と述懐します。