哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第9章のダイジェスト版を公開します。
本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。
物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?
「監視社会」から「相互監視社会」へ
前回記事『監視が「人の行動を変える」メカニズム』の続きです。
「スマホの普及。今は、街を歩く人のほとんどが、スマホという情報機器を持っている。もし社会がフーコーの言う通り刑務所だとするなら、このスマホの普及は一体何を意味するのか?」
「それはおそらく―『囚人全員が監視カメラを日常的に持ち歩き、互いを監視し合っている状況』にほかならないのではないだろうか」
あ、と思った。言われてみればたしかにそうだ。たとえば、もし、僕がいきなり街中で落書きをしたとする。すると、すぐに誰かが「なんかおかしなやつがいるぞ」とその光景をスマホで撮ってSNSで晒す―かどうかはわからないが、少なくとも、そういうことをされるかもしれないし、されたら一発で人生が終わる時代になっていることは間違いない。
「これは私が学生だった頃―もちろんまだネットもなかった時代の話だが―その頃は横暴な振る舞いをする人間たちがたくさんいた。宿題を忘れただけで腫れるほど生徒の頰を叩く先生。スピード違反で捕まえた市民を口汚く罵る警察官。後輩の私物を勝手に使って返さない先輩。昔はそういう理不尽な人たちが当たり前にいた」
「が、今ではそんなことはない。権力や立場を笠に着て横暴なことをする人間は―いなくなったとまでは言わないが―全体的にはかなりの割合で減ったように思える。それはなぜか?」
「今の人間が昔の人間よりも道徳的になったからだろうか? いいや、違う。それは『市民の誰もが監視カメラと盗聴器をポケットに忍ばせ、しかもその情報をいつでも公の場に発信できる時代になったから』である」
なるほど。善人が増えたのではなく、テクノロジーの発達により監視される機会が増えて、より矯正が徹底される社会構造になっただけ―ということか。
「監視社会から『相互監視社会』へ。そして、この変化は、実はもうひとつ別の意味を持つ。それは、我々が暮らすこの巨大刑務所パノプティコンがもはや『破壊不可能になった』ということだ。旧来のパノプティコンなら、中央の監視塔を爆破すればシステムを止めることができたかもしれない」