中山素平氏と川又克二氏
 前編に続いて、日本興業銀行(現みずほ銀行)頭取の中山素平と、日産自動車社長の川又克二の対談記事をお届けする。

 2人は、1929年に旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、日本興業銀行に同期入社した仲だが、中山が興銀の理事に抜てきされた47年に、くしくも川又は日産重工業(現日産自動車)の常務として興銀を出た。2人の進む道は変わったが、それぞれの組織で“中興の祖”と呼ばれるまでの活躍をしたという点では、図らずも共通している。

 川又は57年から73年までの16年間、日産の社長を務め、73年以降は会長として10年間、実質的なトップの座に君臨した。先述したように日産を業界2位に押し上げた中興の祖と称される。だが、その一方で、毀誉褒貶相半ばする部分もある。

 というのも川又はその間、日産労働組合の組合長として権勢を振るった塩路一郎と密接な関係を構築して、行き過ぎた労使協調路線をつくり上げ、同社のコーポレートガバナンス(企業統治)に後々まで禍根を残したとされる。また、強過ぎるリーダーの“独裁”を許してしまう企業文化を日産に根付かせ、それが今回の“ゴーンショック”にまでつながったとみる向きもある。

 一方、中山が興銀の頭取に就任したのは61年。68年には会長に退いており、頭取就任期間は7年にすぎない。その間、65年の証券不況で山一證券への日銀特融を引き出したり、前述した日産とプリンス自動車工業との合併や、富士製鐵と八幡製鐵の合併による新日本製鐵誕生などの大仕事を主導した。興銀の中興の祖であると同時に、第2次世界大戦後の日本経済復興に尽力した人物でもある。

 その中山は、会長も2年で辞め、“表舞台”での活躍期間は短く見えるが、その後は相談役を経て、2005年に99歳で亡くなるまで特別顧問に就いていた。しかも、決してお飾りではなく、重大案件に関して相談を受ける立場だった。筆者は90年代、バブル崩壊による企業再建の局面を取材する機会が多かったが、興銀絡みの案件では往々にして「そっぺいさん」の影がチラついていたものだ。

 対談の最後、「経営者には長距離選手と短距離選手がいる」という話で盛り上がる。中山は「当然、経営というものは後世に残すという長距離選手であるべきですね」と語り、「銀行出身者は長距離向き」と結論づけられているのが興味深い。

 しかし、強過ぎるトップが長く組織に影響力を持つのは考えものではある。日本企業特有の慣習である「相談役・顧問」による二重権力構造、いわゆる長老支配は、多くの企業でコーポレートガバナンスの阻害要因となっているのも事実だからだ。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

自動車業界は“金の時代”へ
販売資金に二つの問題

──自動車産業が“技術の時代”から“販売の時代”に移り、これからは“金の時代”といわれていますが、中山さん、“自動車業界を金の面から見る”という話をしてください。

1965年1月4日号1965年1月4日号より

中山 販売資金が一番問題でしょうね。メーカーの皆さんもその点について、いろいろ対策を立てておられますし、金融界としてもこれをどうさばいていくかが大きな課題です。この問題は、自由化で、外資がどう出てくるかという問題も含んでいます。しかしこれは銀行が1行、2行でやれる問題ではない、設備資金でもそうです。

 日本の企業がこれだけ大規模になってくると、さっきの金融資本の問題にもつながることですが、まず第一に金融機関が変な競争をせず、まともに協力していくこと。これが大事な課題です。資金量をどう手当てするかというのは全体に関する問題で、自分の関係している販売資金というふうにだけ小さく考えることは間違いだと思いますね。これは川又君の方でも、業界全体として今取り組んでいるでしょう。

川又 販売資金の問題は二つあります。販売条件が崩れてきたから、同じ台数でも資金が不足してきたことが一つ、これは悪質な方です。それから、多く売っていくためには、販売資金が必要だという正常なもの。

中山 そうそう。

川又 この悪質な方をなくさねばならないと思いましてね。今販売店と販売協会、工業会とが話し合いをしているのですが……。

中山 自分のところが面倒を見ている会社だと、ついつい小さく考えてしまい、甘い販売金融というか……。

川又 崩れた販売条件による資金の枯渇、その融資……。今の系列融資という面から見ると、こういった傾向がないとはいえない。しかしそれは健全な姿ではない。

中山 両方一緒になってやらなければなりませんね。