中山素平氏と川又克二氏

 1965年1月4日号、新春企画として掲載された、日本興業銀行(現みずほ銀行)頭取の中山素平(1906年3月5日~2005年11月19日 )、日産自動車社長の川又克二(1905年3月1日~1986年3月29日)の対談記事である。

 この2人は、29年に旧制東京商科大学(現一橋大学)を卒業し、日本興業銀行に入行した同窓同期という仲だ。

 中山は産業金融の雄、日本興業銀行の頭取として、数々の巨大産業再編劇を陰で支えた人物。経済界の危急存亡のときに迅速果敢に姿を現して問題を解決する。そして仕事を終えると後も振り返らずに立ち去っていく姿が、大仏次郎の時代小説に登場する“鞍馬天狗”をほうふつさせるということで「財界の鞍馬天狗」の異名を取った。

 一方の川又は47年に、当時の日産重工業(現日産自動車)の上層部が戦犯としてパージされたのを機に、融資元である興銀から送り込まれ常務に就任、57年に社長となった。66年に日産自動車とプリンス工業自動車の合併を実現し、日産を国内2位の自動車メーカーへと成長させた。この合併は中山の尽力なしには実現し得なかったといわれる。

 対談企画は合併劇の1年前のものだが、対談冒頭に司会が「われわれ自動車業界の記者は、中山さんと川又さんが、こういう話をしたといううわさに敏感でしてね。今日はお2人が、一体どういう話をされているのかを伺いたい」と冗談めかして言っているように、2人のキーマンの動向が注目の的だったことがうかがえる。

 この頃、川又のほかにも、山一證券の社長に就任した日高輝(中山・川又と同期入行)、百貨店のそごうに副社長として入社した水島廣雄など、興銀出身者が次々と問題企業に乗り込み、再建に成功するという例が見られた。問題企業に金と人を送り込んで再生していくさまから、興銀は「日本産業界の野戦病院」とも称された。

 また、当時人気だった漫画に、映画化やテレビドラマ化もされた「益荒男(ますらを)派出夫会」という作品がある。“派出夫”(男性版の派遣家政婦)が、派遣された先で繰り広げる仕事ぶりを面白おかしく描いたコメディーだが、それをもじって当時は「財界の益荒男派出夫会」と呼ぶ向きもあったようだ。

 対談の最後(下)で中山は、その点に触れて「“派出夫”では病気は直らない。医者であるとはうぬぼれないが、少なくとも看護婦ぐらいの心意気はある」と話している。

 興銀が当時、日本の産業界においてどんな存在だったのか。また日産自動車が置かれていた状況はどのようなものだったのか。それを知る貴重な対談である。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

なかなか“銀行の頭”を
切り換えられないよ

1965年1月4日号
1965年1月4日号より 拡大画像表示

──われわれ自動車業界の記者は、中山さんと川又さんが、こういう話をしたといううわさに敏感でしてね。今日はお2人が、一体どういう話をされているのかを伺いたい(聞き手は当時のダイヤモンド社副社長・石山四郎)。

中山 いろいろあるね。ちょっとあなた方には申し上げられないことが、ずいぶんあるな(笑)。

川又 そういうことを言うと「そらっ!」と来るからね。

中山 今日はあまり難しい話はよそうよ。君、どうせなにも準備しておらんだろう(笑)。

川又 どうぞ、どうぞお先に……。

──まず、川又さん。この間、3年間に900億投資して4万5000台造るというご計画が出ていましたが、あれはまだ確定的ではないとか……。