ときめきを買うために
心得るべき作法

 お金が毒になる第二のタイプは、「忘れて良いことをいちいち気に病むのに、忘れてはいけないことを忘却する」という人たちだ。

 わかりやすい例で言うと、ソープランドに遊びに行った際、プレイの最中に「お金を払って成立している関係だ」ということを意識しすぎて、オルガズムの直前まで「どうせ君にとってこれは仕事だろ」なんて言っている人たちである。そんな瑣末な事情は忘れて没頭した方が楽しめるのに。

 とはいえ、ソープランドの女性との性的な行為を、真に魂のぶつかり合いだと勘違いする男性は少ないし、それでも、ソープランドは味気なくてつまらないという男性ばかりではない。お金を払ったことで得た行為が、愛を確かめ合う行為や子作りの行為とは異質であることを了解しながらも、例えばオルガズムの直前やリラックスした事後のマッサージなどで、そういった瑣末なことを脳内から吹き飛ばす賢さを持ち合わせている人が多いということだ。

 にもかかわらず、女性と食事に行ったり温泉旅行をしたりするとなると、なぜか急にそういった作法を忘れてしまう殿方が思いの外多い。

 マネーパワーで引き寄せた華やかな時間を、自分の魅力が起こした化学反応であると勘違いしたり、逆に女性と良いムードになった時に「そういえば最初は興味がなさそうだったのに、あれを買ってあげてからコイツは急に接近してきた」と余計なことを思い出したり。

 結論から言えば、お金で変わる男女の関係は確実にあるし、お金によって手に入れられる至福の時間も絶対にある。

 しかし、お金による関係と、全く経済的な利害のない関係と、途中で経済状況が変化した関係は、時に別の模様になり、別の形を見せ、別の手入れを必要とする。

 それを知って受け入れる謙虚さを持った上で、いつまでもお金による関係だと気に病むことなく、手に入れることができた至福の時間を楽しめればいい。

 そもそも男女間でのときめきや幸福な夜は、「同じものは世界に二つないし、この先二度と訪れない」という前提あってこそ光り輝くのだから。

 それを大まかに愛と呼ぶのは自由である、と個人的には思う。

 正確に言うと、愛ではない何かが結果的に愛を代替し、最終的には愛が生まれたともいえるし、最後まで愛とは違うけれども愛のなさを埋めるに十分な何かがあったともいえる。

 そもそも愛なんていうものの所在は安易に証明できる類のものではないのだから、それくらい漠然とした答えで良いのだ。漠然としているからこそ、今夜も愛の匂いがする何かについてお金が飛び交い、銀座や歌舞伎町や西麻布あたりに明かりが灯もる。

 かように、お金で買えるときめきはあり、作法さえ心得ればそれは確実に本来的なときめきとして作用する。お金で買えない価値はあるが、買えるものだって、それがプライスレスだという見当違いさえ起こさなければ尊い。そして、もっと普遍的なことを言えば、お金で買える幸せは、お金でしか買えない。買える人はそこに楽観的であるべきなのだ。