だが、安倍氏は一度も省庁の大臣に就任せず、巨大な官僚組織を率いる経験を持たないまま首相になった。小泉首相は、安倍氏の国民的人気を自らの任期中、徹底的に使い尽くした結果といえる。

 小泉首相が、安倍氏を本気で「ポスト小泉」として考えていたなら、財務相や外務相、総務相などの主要閣僚に就け、修行させることができた。だが、それはしなかった。小泉首相は「政治家とは、使い捨てられるもの」と、どこか達観した考えを持っていたように思う。安倍氏を育てる気などまったくなかったのだろう。それでつぶれるならば、そこまでの器量と、淡々と考えていたのかもしれない。

拉致問題を
「支持率の調整弁」と捉えている?

 しかし、威勢のいい言動だけで周りに担ぎ上げられて首相になった安倍氏は、自分は何でもできると勘違いしたようだ。第1次安倍政権時、「戦後レジームからの脱却」という威勢のいいスローガンを掲げて、歴代自民党政権が成し遂げられなかった「教育基本法改正」「防衛庁の省昇格」「国民投票法」など「やりたい政策」の実現に突き進もうとした(第101回)。

 だが、政治家としての経験が乏しい首相は、「お友達」と呼ばれる盟友ばかりを主要閣僚や補佐官に起用し、政権の意思決定は混乱した。国会では野党との調整がうまくできずに「強行採決」を乱発。国民の反感を買ってしまった。

 また、「消えた年金」問題や閣僚の不祥事・失言など、さまざまな問題が噴出した。野党の厳しい追及に対し、日替わりのようにクルクル変わる首相の軽い発言とパフォーマンスが、国民の怒りの火に油を注ぐかたちとなり、07年7月の参院選で、安倍自民党は惨敗した。

 結局、安倍首相は首相在任365日目に、突如「病気」を理由に政権を投げ出してしまった(第45回)。この突然の辞任は、「敵前逃亡」「政権放りだし」などと散々に酷評された。

 12年12月に首相に復帰した安倍氏は、第1次政権の失敗に懲りたのか、最初は威勢のいい言動が影をひそめた。その代わり、「高支持率」を維持するために世論受けがいい政策を並べるようになった。

 経済政策は、公共事業や金融緩和を「異次元」規模で派手に断行する「アベノミクス」を打ち出した。「失われた20年」で長年にわたるデフレとの戦いに疲弊し、「とにかく景気回復」を望む国民の声にダイレクトに応えた。(第163回)。

 選挙に関しては14年12月の選挙で、安倍首相が誰も反対しようがない「消費増税延期の是非」を争点化しようとしたことが特筆される。これはさすがに露骨すぎて批判が噴出したため、首相は「アベノミクスの是非」が争点と言い換えた。だが、アベノミクスこそ誰も反対しない政策の羅列であった(第94回)。