そのとき、世論や財務省(大蔵省)の意向は参照されない。厚労省(厚生省)は、国民の健康を守るという使命を遂行する組織であり、政権からも他省庁からも独立して判断を行うのが原則だ。以上は、1950年に生活保護法が成立して以来、厚労省(厚生省)の文書や多数の判決などによって確認されてきている。今回の名古屋地裁判決も、判決文によれば、これらの法や文書や判決類を判断枠組みとしている。

 ところが判決理由には、以下のように示されているのだ。

「生活保護費の削減などを内容とする自民党の政策は、国民感情や国の財政事情を踏まえたものであって、厚生労働大臣が、生活扶助基準を改定するに当たり、これらの事情を考慮することができることは(略)明らかである」

 日常的な用語で言い換えると、以下のようになる。

「生活保護費は自民党が決める。自民党が国民感情や財政事情を反映したければ、そういう路線に沿って生活保護費が決まる。それでいいのだ」

司法が自ら司法の役割を放棄
逆の意味で“画期的”な判決

 背後で自民党が何を考えていようが、行政の厚労省が誤った判断をしているのなら、「それは誤っている」と示すのが司法の役割である。しかし今回の判決内容は、厚労省の誤りを指摘しないだけではなく、さらに「厚労大臣が自民党だし、自民党が生活保護叩きの国民感情を盛り上げていたし、財政的には社会保障削減方針で一貫しているわけだから、厚労省がそうするのは当然」と言わんばかりなのだ。

 司法が自ら、司法の役割を放棄しているのか。三権分立ではなく三権同一を、司法が積極的に目指そうとしているのか。この名古屋地裁判決の“画期的”な意義は、「司法自身による司法の無効化」に見出すことが可能かもしれない。

 生活保護費を政権与党が決めてもいいことにするためには、国会の審議と法改正が必要だ。それは司法の役割ではない。しかし本判決は、立法と司法の境界線を軽々と踏み越えてしまっている。俗に言う「謝って済むなら警察は要らない」を、はるかに超越した判決だ。