車が売れなくなった自動車メーカーはどうなるのか、鉄が売れなくなった鉄鋼メーカーはどうすればいいのか――。富士フイルムホールディングスは2000年代前半、デジタル化の大波で写真フィルム市場が10分の1に急減するという本業消失の危機に直面していた。こうした中、経営トップに就任した古森重隆氏は、経営改革の大鉈を振るうとともに医療など新たな成長分野へのМ&Aを積極化。奇跡と称される事業構造転換を成し遂げた。

古森氏は有事に際して経営者がやるべきこととして4つの行動を説き、そして何よりも重要なのは「絶対に成功する」という気迫と勇気だと言い切る。大きな経営判断をいかにして行うのか、イノベーションを生み続ける組織はどうあるべきか、そして、将来の経営者を目指す人たちがいまから取り組むべき修練や教養など、古森氏がその独自の経営論を語り尽くした。

市場規模が10分の1に縮小
直面した本業喪失の危機

編集室(以下青文字):古森さんが社長に就任した2000年は、主力事業だったカラーフィルムなどの写真感光材料の売上げがピークの年でした。その後、デジタルカメラの普及とともに写真フィルム市場は急激に縮小することになったわけですが、そもそもデジタル化による危機を認識したのはいつからだったのでしょうか。

奇跡の改革を成し遂げた果断の経営

富士フイルムホールディングス 代表取締役会長・CEO 
古森重隆
SHIGETAKA KOMORI

1939年旧満州生まれ。東京大学経済学部卒業後、富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)に入社。主に印刷材料や記録メディアなどの部門を歩む。1996年富士フイルムヨーロッパ社長、2000年代表取締役社長・COOを経て、2003年に代表取締役社長・CEOに就任。液晶ディスプレー材料や医療機器などの成長分野に注力し、業績をV字回復させた。

古森(以下略):デジタル化の時代が来るというのは、すでに1980年頃から業界内でささやかれていました。当社ではすでに70年代からR&D投資を始めており、88年には世界初のフルデジタルカメラを開発、98年には他社に先駆けて銀塩フィルムの画質に匹敵する150万画素のコンパクト・デジタルカメラを発売しました。

 その後、他メーカーも新商品をどんどん出し始めましたが、2002年頃まではデジタルカメラでは当社がトップを維持していました。しかし、デジタルカメラの市場は、写真フィルムの市場と異なり、競合ひしめく価格競争の激しい業界です。デジタル製品だけでは、写真フィルムで得ていた利益を確保できないことは明らかでした。そして、写真フィルム需要が予想以上の凄まじいスピードで縮小していることが次第に明らかになってきました。ついには年率20~30%もの減少となり、2000年からわずか10年で市場規模は10分の1にまで縮小したのです。想像以上の落ち込みにより、いまのままでは駄目になると思いました。

 相当な危機感を持ったということですか。

 危機感というよりも強烈な使命感ですね。ただ目の前にある状況に対して全力を尽くそうという前向きな気持ちでした。

有事に経営者が
取るべき4つの行動

 こうした中で2003年にはCEOに就任し、古森さんがトップとして改革に乗り出します。有事に際し、経営者がやるべきこととして「読む」「構想する」「伝える」「実行する」の4つを主張されていますね。

 新しい取り組みをする際、みずからが置かれている状況と将来の可能性を「読む」うえで、まず重要なのは数字を把握することです。技術や製品の競争力などを踏まえ、投資に対する成果について、数字をもとに綿密なシミュレーションを行います。

 写真関連事業については、まずフィルム需要がどういうスピードで縮小していくのかを正確に把握する必要がありました。そこで、担当部門に需要予測させたところ、絶望的な予測数値が出ました。そして、その予測は、私の実感と近いものでした。

 次は何をすべきか「構想する」ですね。

 当時、写真関連事業は売上げの6割、利益の7割を占めていました。国内外に膨大な生産設備や多くの人員などの固定費を抱えており、赤字転落を回避するにはリストラに踏み切らざるをえませんでした。どんな経営者でもリストラはやりたくないものですが、この時、私が考えたのは経営のプライオリティです。全社員の雇用を守ることを最優先に考えるべきか、会社の存続を最優先に考えるべきか。

 もしも会社が潰れてしまえば、国内外にいる約7万人の社員、さらにその家族を含めれば約30万人近い人たちに影響が及ぶ。これは何としても避けなければなりませんでした。