上馬キリスト教会」というツイッターアカウントをご存じだろうか。
 名前から、教会の情報発信をこぢんまりと行っている……と思ったら大間違い。実際は、「『アーメン』を現代語訳すると『それな』、関西弁訳なら『せやな』ではなく『ほんまそれ』」といった、キリスト教を面白く伝えるツイートを連発する人気アカウントなのだ。
“中の人”は「まじめ担当」と「ふざけ担当」の二人組。牧師や司祭ではなく、この教会に通うふつうのキリスト教徒だ。日本ではタブー視されがちな「宗教」を面白く伝えるつぶやきがたちまち話題となり、NHKニュースなどの各種メディアで紹介された。フォロワー数はうなぎ上りに増え、今や10万を超える。
 そんなアカウントの“中の人”の「まじめ担当」が「キリスト教の入門書ですら敬遠してしまう、超入門者」に向けて書いたのが『上馬キリスト教会ツイッター部の キリスト教って、何なんだ? 本格的すぎる入門書には尻込みしてしまう人のための超入門書』(MARO著)だ。現代の必須教養であるキリスト教について、基本知識からクリスチャンの考え方、聖書の大まかな内容にいたるまでを1冊で網羅した。
 本稿では、特別に本書から一部を抜粋・再編集して紹介する。

◎神様は「越えられない試練」も与える?

新型コロナウイルス禍で、人類全体が「試練」と立ち向かっている。

どうにもならない試練を前にしたとき「神様は、乗り越えられる試練しか与えないよ」といった励ましを受けることがある。

しかし、どうやらこの言葉の元となった『聖書』のことばは、実はちょっと違う意味らしい。一体どういうことなのか『キリスト教って、何なんだ?』より紹介する。

神は「越えられない試練も与える」って本当ですか?Photo: Adobe Stock

聖書のことばが「誤解」されたわけ

聖書の中に、こんなことばがあります。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。
(コリント人への手紙第一 10章13節)

 これをもとにした「神は、乗り越えられる試練しか与えない」というフレーズが、何年か前にTVドラマで流行りました。「何か辛いことがあったときはこの言葉を思い出して頑張るんだ」という方もずいぶん増えたようです。

   聖書のことばがこんな風に世の中に広まっていくのは嬉しいことです。

 しかし、このことばが大嫌いだ、という人も世の中には少なくありません。特に、辛いこと悲しいことがあって誰かに相談したときにこれを言われると、「耐えられるはずのものに耐えられない自分が悪いと言うのか」「これ以上どう耐えろと言うのか」と、傷ついてしまうケースも多いようです。

 しかし、聖書はそんな酷いことは言っていません。

 勘違いの鍵は「試練」という語の解釈です。英語版の聖書を見ると分かりやすいのですが「試練」にあたる部分にはTemptationという語があてられています。これを訳せば「試み、誘惑」となります。

 けれど日本語では「試練」と訳してしまっているために、「辛いこと、悲しいこと」という間違った意味に思われがちなのです。

 ですから、さきほど引用した聖書のことばは「神様は、あなたを耐えられない誘惑にあわせることはない」という意味になります。「罪」は様々なルートで私たちを誘惑してくるけれど、神様は必ずその誘惑から逃れる道を備えてくださっている、と言っているわけです。

 この箇所は前後も読むと、特に「偶像礼拝」について戒めていますから、もう少し思い切って意訳すれば「ほかの神々を拝む誘惑も、お酒とか享楽とかほかの何かにすがる誘惑もある。だけどそれに陥らずにすむように神様は道を用意してくれてるんだよ」ということになります。

「乗り越えられない試練」はある

 ただし、神様は「辛いこと悲しいこと」という意味では、人に「越えられない試練」を与えます。人間は限界のある存在ですから、何もかもを自力で乗り越えられるはずがありません。

 たとえば重い病気の人を「神様は乗り越えられない試練を与えないから必ず治るよ」と励ますのは、はたして本当に優しいことでしょうか。この励まし方を聖書は肯定していません。病気が治るか治らないかは神様の領域のことで、人には分からないからです。

 もし、この励まされ方をした人の病気が治らなかったら、その人は「やっぱり神様はいない」とか「神様は嘘つきだ」とか思ってしまわないでしょうか。

 「治るはずの病気が治らないのは自分が悪いか、神様が自分を見捨ててしまったからだ」とか思ってしまわないでしょうか。そう考えると、この励まし方は必ずしも優しくないということになります。

 すべての苦しみや悲しみを自分の力で越えられるなら、人間は神様を必要としません。イエス様のことも必要としません。

越えられない困難は神様に頼る

 そもそも、人間には絶対に越えられない「死」という困難があります。

 人間は自力ではどうやってもこの困難を越えることができません。そして「死」のあるところ、それに付随する不安や苦しみや悲しみは必ずつきまといます。

 また「生」にも苦しみや悲しみはつきまといます。アダムが禁断の実を食べたときに「お前はこれから、苦しんで食を得なければいけない」と言われた通りです。

 神様はときに人に、自分ではとても越えられないような苦しみや悲しみや困難を与えます。

 しかしそれは神様の意地悪ではないんです。そんな困難がなければ、人は決して神様に助けを求めないですし、赦しを求めることもありません。きっと聖書を開くことだって、教会に行くことだってなくなるでしょう。

 聖書の偉人たちも、自分ではどうにもならない困難にみんな直面しました。

 そんなとき、彼らは聖書を開いたり、祈ったりして、神様と一緒にその困難を乗り越えました。そして、神様と仲良しになりました。

 子どものころ、ときどきプラモデルを作りました。でも自分で全部簡単にできてしまったプラモデルよりも、自分ではうまくできなくて父に手伝ってもらってやっとできたプラモデルの方が後々までずっと愛着が残りましたし、何より父との良い思い出になりました。

 神様が与える「自分では越えられない困難」は、この「手伝ってもらわないとできないプラモデル」みたいなものです。そんな困難を与えるとき、神様は「これ、きっとお前には難しいから、一緒に作らないか?」って言っているんです。

 そこで「嫌だ! 自分だけで作る!」と断ったらお父さんはがっかりしてしまいます。

 人生は、神様と一緒に組み立てるプラモデルです。それはとても複雑で難しいプラモデルですが、神様が用意した完璧なプラモデルですから、「パーツが足りない」なんて事態はないんです。神様と一緒に丁寧に作っていけば、必ず完成するんです。

 ですから、本当に辛いこと悲しいことに出会ったら「越えられない試練はないんだから越えてやる!」と思うよりも、素直に「神様、僕には越えられません。助けてください」と告白してしまう方が、いいんです。

 強がらなくていいんです。

 お父さんに手伝ってもらった方が、綺麗なプラモデルができ上がりますし、何より楽しい思い出になって、仲良しになれます。