「上馬キリスト教会」というツイッターアカウントをご存じだろうか。
名前から、教会の情報発信をこぢんまりと行っている……と思ったら大間違い。実際は、「『アーメン』を現代語訳すると『それな』、関西弁訳なら『せやな』ではなく『ほんまそれ』」といった、キリスト教を面白く伝えるツイートを連発する人気アカウントなのだ。
“中の人”は「まじめ担当」と「ふざけ担当」の二人組。牧師や司祭ではなく、この教会に通うふつうのキリスト教徒だ。「笑いながら聖書に親しんでもらう」をコンセプトに2015年にアカウントを開設。日本ではタブー視されがちな「宗教」を面白く伝えるつぶやきがたちまち話題となり、NHKニュースなどの各種メディアで紹介された。フォロワー数はうなぎ上りに増え、今や10万を超える。
意外なことに、フォロワーの多くはキリスト教徒ではないという。「キリスト教にちょっと興味がある」が「真面目すぎたり難しすぎたりするのはちょっと……」という層の受け皿が、今までほとんど存在しなかったからかもしれない。
そんな「キリスト教の入門書ですら敬遠してしまう、超入門者」に向けて書かれたのが『上馬キリスト教会ツイッター部の キリスト教って、何なんだ? 本格的すぎる入門書には尻込みしてしまう人のための超入門書』(MARO著)だ。著者は“中の人”の「まじめ担当」。現代の必須教養であるキリスト教について、基本知識からクリスチャンの考え方、聖書の大まかな内容にいたるまでを1冊で網羅した。
本稿では、特別に本書から一部を抜粋・再編集して紹介する。
抑えられない「怒り」はどうすればいい?
現代社会には「怒り」が充満している。かつて個人のものであった怒りは、SNSを通じて拡散され、共有されるようになった。急速に在り方が変化したことで、コントロールできない怒りに悩まされる方も多いのではないだろうか?
実は、クリスチャンとして生きてみると、怒りの見え方が変わってくる。今回は「キリスト教的ライフハックのすすめ」として、怒りとの向き合い方をお伝えする。
怒ったっていいんです
怒ることを悪いことだと思っている方はいませんか。しかし、聖書を読むと必ずしも怒りは悪い感情であるとはされていません。
人間が抱くべきではない欲望や感情を示したものとして有名な「七つの大罪」の一つに「憤怒」がありますが、実はこの「七つの大罪」は4世紀ごろに生まれた概念であって、聖書自体にはその記述はありません。
それに、ここで挙げられている「憤怒」は「激情」とも訳されます。つまり「感情のコントロールを失った状態」を指しているのであって、コントロールされた正当な怒りを否定したものではありません。
その証拠に、聖書の中にはイエス様が怒るシーンがいくつか描かれています。いちばん有名なのは「宮清め」と言われるもので、エルサレムの神殿で商売をしている人たちに対して「神聖な場所で商売をするとは何ごとだ」とイエス様が怒り、商人たちを追い払う、というエピソードです。
また、旧約聖書を読めば神様が怒るシーンは枚挙に暇がありません。「正当な怒りは罪ではない」というのが聖書のメッセージです。
怒りは「問い」
怒っている人を観察してみてください。いや、本当にその場で観察なんかしちゃうとさらに怒られたりしちゃいますから、怒っている人を思い出してみてください。その人は「なんで!?」とか「どうして!?」という言葉をたくさん発していませんか?
実は怒りって「問い」なんです。「問い」の中で、特に強い感情や行動を伴うものが怒りなんです。「問い」って決して悪いものではありませんよね。むしろ良いものだったりしますよね。
聖書のエピソードで言えば、「宮清め」の怒りは「ここは聖なる場所なのに、どうして君たちは商売をしているのだ?」という問いですし、旧約聖書の神の怒りは「君たちは選ばれた民で、私はこんなに君たちを祝福しているのに、どうして私をないがしろにするようなことをするのだ?」という問いなんです。
神に問うことは決して罪とはみなされません。天を見上げて「神様、どうしてですか?」と問うことはモーセ、アブラハム、ヤコブ、ヨナ、イザヤ……と、聖書に出てくる多くの偉人たちがみんな、しょっちゅうやっています。
イエス様でさえ、十字架につけられる前に神に「どうしてですか」と問うています。そしてそれはむしろ良いことだとされています。問うということは答えを求めている、ということであり、神の答えを待ち望むことであるからです。それは祈りの一種なのです。