野村證券をいわゆる“株屋”から金融機関へと転換させた功労者は、3代目社長の奥村綱雄と、その後を継いだ瀬川美能留(1906年3月31日~1991年9月10日)の2人といえるだろう。

 奥村は終戦の1945年に取締役に就任した。就任間もなく、財閥解体で飯田清三前社長ら当時の幹部が大量追放された。結果、47年には早くも専務に抜てきされ、48年には45歳の若さで社長に就任した。

 奥村が打ち出したのは「ダイヤモンド経営」と称する経営方針だった。いわく「ダイヤモンドは中央の面を囲み、多くの面が多角的に集まって底知れぬ光を放つ。会社経営もまた、一人の独裁でもいけないし、多数の悪平等でもいけない。個が集まって全を形成するが、個は全あっての全ではない」。山一証券や日興証券に比べると、野村證券は歴史が浅く、東京進出も遅かったが、ダイヤモンド経営を掲げる奥村の下、短期間で証券界の王座に躍り出た。

 その奥村は11年間社長を務め、56歳で瀬川にバトンを渡す。59年6月、瀬川は52歳だった。奥村から社長就任を言い渡されたとき、瀬川は「任期は長くても2期4年にしてください」と伝えたという。しかし、奥村は「社長というのは最低でも10年はやれ。10年やってこそ、足跡が会社にも業界にも残る」と一喝される。結局、瀬川は68年までの9年間、社長を務めた。

 一貫して営業畑を歩んだ瀬川だが、“株屋”からの脱却においては顧客第一主義、調査重視、海外市場への視点を打ち出した。特に「調査重視」については、65年に調査部を分離独立させて野村総合研究所を設立。日本初の本格的民間シンクタンクだった。

 もっとも、瀬川によれば、こうした方針は創業者である野村徳七の哲学に従ったのだという。『野村証券株式会社40年史』(66年10月発行)に、瀬川は巻頭言を寄せているが、そこにはこうある。

「私どもの拠るべき大道は、すでに創業の昔から明らかに示されている。60余年前の創業の際、野村徳七は、人材の登用を軸とし、調査の重視、顧客との共栄、そして国際的発展の三つを、基本方針として大きく打ち出した。その後の歴史を通じて、野村の伝統を継ぐ者は、等しくこの大道を踏み、かつそれを一層発展させるために、渾身の努力を傾けてきた。この創業の精神こそは、常に野村證券を導く不朽の哲学であり、理念であった。
 したがって、創立40周年の意義深き年を迎えて、私どもがみずから深く胸奥に期したことも、畢竟ここに帰着する。40周年を記念する最大の事業として『野村総合研究所』を発足せしめたことも、そうした私どもの微意のあらわれの一端にほかならない」

 今回紹介する63年の談話記事でも、瀬川は野村徳七の「業界の一の一たれ」という遺訓を引用し、常に業界の先頭に立ち、未踏の分野に挑んでいくパイオニア・スピリットの大切さを説いている。
(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

“業界の一の一たれ”
野村證券の精神の柱

1963年9月10日号
1963年9月10日号より

 私が、現在の奥村会長の後を受けて、社長の椅子に就いたのは昭和34年のことである。実は私自身、少し早く社長になり過ぎたと思い、2~3年はゆっくり社長学を勉強したいと考えていたのだが、仕事の方は、次から次へと私を追い立て、早くも3年が過ぎてしまった。

 野村證券には、創業の初めから、今に至るまで、一貫して引き継がれてきた経営のバックボーンがある。それは、創立者野村徳七翁が残された“業界の一の一たれ”という遺訓である。今、野村證券の本社は、日本橋の河畔にあるが、この土地は“業界の一の一たる”べく、徳七翁が特に日本橋通1丁目1番地にその地を定められたものである。

 この徳七翁の遺訓は、今なお脈々として、社員の胸に引き継がれ、野村證券の精神の柱となっている。