高橋は東京帝国大学を卒業後、1939年に理研重工業に入社。戦火が激しくなると、徴兵から逃れるため中国・上海にあった三興製粉に入社するが、結局、現地召集に遭う。パプアニューギニア東部のラバウルで捕虜となるも、無事に復員すると、石油の特約店の経営に携わり、55年に日本住宅公団(現都市再生機構)の前身である建財の常務となった。
そんな高橋に、三井不動産の取締役業務部長だった江戸英雄(後に三井不動産社長)から、設立間もないオリエンタルランドの専務就任の声が掛かる。当時、京成電鉄、三井不動産、千葉県などを中心に、千葉県・浦安地区の東京湾岸を埋め立てて一大レジャーランドを建設する計画が進んでおり、地元の漁業組合に漁業権の放棄を求める交渉役として、高橋に白羽の矢が立ったのだ。
気性が荒く、仲間意識も強い漁師たちとの交渉は一筋縄ではいかない。しかし、豪放磊落ながら誠実で対人折衝に長けた高橋は、漁協の幹部たちとひたすら酒を酌み交わして信頼を勝ち取り、交渉をまとめていった。領収書をもらえない接待も多く、高橋は多額の身銭を切るあまり、東京都渋谷区松濤にあった屋敷を売り払ったとの逸話も残る。
オリエンタルランドの初代社長は京成電鉄の社長だった川崎千春が務めたが、前述の通り、TDL開業時の社長は2代目の高橋である。TDLへの総投資額は土地を除いても1500億円で、79年の米ウォルト・ディズニー・カンパニーとの契約時点から3倍近くに膨れ上がっていた。年間の来場者1000万人を達成しないと赤字といわれた中での開業だったが、初年度も2年目も見事に1000万人を達成。順風満帆のスタートとなった。
今回は、「週刊ダイヤモンド」1985年6月8日号に掲載された、開業から2年たったタイミングで行われた高橋のインタビューだ。「アメリカのディズニーは今年が30周年記念です。こっちはまだ2年です。これから若い人に大いに頑張ってもらって30周年を迎えたいですなあ」と高橋は語っている。
37周年となる2020年は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のための長期休園もあって苦戦しているが、年間来場者数は約1800万人(18年、Themed Entertainment Association調べ)と、もちろん日本最大のテーマパークで、世界でも3本の指に入る集客力を誇る娯楽施設だ。この「夢と魔法の王国」は、高橋の活躍なくしては誕生し得なかった。高橋は98年に米ディズニーから功績をたたえられ「ディズニー・レジェンド」を受賞。その2年後の2000年に86歳で亡くなった。
(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
1時間近くの行列は苦痛だが
ガラガラでもお客はつまらない
──入場者数はなかなか順調のようですね。
1985年6月8日号より
おかげさまで次年度も1000万の大台なもんですからね。ありがたいこったと思ってますわ。
──こういうものは2年目はある程度落ちると考えられていますけどね。
だいたい次年度は750万から800万がせいぜいだろうといわれていたんですが、リピーター(2度以上来園する人)が3割ぐらいありました。これはありがたいことなんですよ。
われわれ従業員にもお客さまにサービス申し上げて、本当に今日一日楽しかった、またお小遣いためて来たいな、という気持ちにして差し上げてお帰り願うというのが理想だと話しています。ああ、こんなとこばかばかしい、もう二度と来ない、なんて言われたんじゃおしまいですからな(笑)。