IT黎明期に日本のみならず世界を舞台に活躍した、「伝説の起業家」西和彦氏の初著作『反省記』(ダイヤモンド社)が出版された。マイクロソフト副社長として、ビル・ゲイツとともに「帝国」の礎を築き、創業したアスキーを史上最年少で上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、全てを失った……。20代から30代にかけて劇的な成功と挫折を経験した「生ける伝説」が、その裏側を明かしつつ、「何がアカンかったのか」を真剣に書き綴ったのが『反省記』だ。ここでは、西氏が間近に観察した(いや、当事者だった)、いまや世界に冠たる「帝国」となったマイクロソフト社の礎を築いた「伝説」について振り返る【前編】。
知らないうちに「伝説」は始まっていた
マイクロソフト帝国――。
いまや、世界中の人々が、この言葉を聞いても違和感を感じないだろう。約40年前に、19歳のビル・ゲイツと21歳のポール・アレンが、たった二人で始めたパートナーシップは、世界に冠たる超巨大企業に上り詰めたのだ。
これを偉業と言わずして、なんと言う? その最初期に、彼らの仕事に深くかかわり、それなりの貢献ができたことは、僕にとって幸運で名誉と言うほかない出来事だった。
しかも、僕は、マイクロソフトが帝国としての礎を築く、最初のきっかけとなったビッグ・ビジネスの現場に立ち会うことができた。
1981年、コンピュータの巨人IBMが、ついに出したパソコン「IBM-PC」に、マイクロソフトのOS「MS-DOS」を採用。大型コンピュータで世界の70%のシェアを誇っていたIBMが参入することで、パソコンは個人ユーズからビジネス・ユースへと広がり、その市場を劇的に拡大させた。そして、「IBM-PC」が、パソコンのデファクト・スタンダードになることにより、「MS-DOS」も世界標準としての地位を確立。これが、マイクロソフト帝国の礎石となったと言っていいだろう。
歴史に”if”はない。しかし、もしもあのとき、「IBM-PC」に「MS-DOS」が採用されなければ、どうなっていただろう? いまのマイクロソフト帝国はなかったかもしれない。そして、誰かが別の帝国を築いていたはずだ。まさに、パソコンの歴史の分水嶺となる、伝説的な一幕だったのだ。
伝説の筋書きを書いたのは、気まぐれで残酷な”女神”だった。
”女神”は、この僕も登場人物のひとりに選び、演ずべき役割を与えた。そして、伝説への導火線は、思わぬところに引かれていた。NECの「PC-8001」が初めてお披露目されたマイコン・ショー(詳しくは連載第11回)。僕がNECのグリーンの背広を着て、デモンストレーションをしていたときに、”女神”は導火線に静かに火をつけたのだ。