「同じもの」と「うんといいもの」のどちらがいい?

 あの会場で、沖電気の生野さんと大西さんに声をかけられて、「西くん、あれ、いくらなの?」と聞かれたわけだが、それで会話は終わらなかった。そのとき、「うちも、NECのようなパソコンをつくりたいんだが」という相談を受けたのだ。

 もちろん、僕は、後日、いそいそと沖電気に出かけて行った。そして、「NECと同じパソコンを作るか、うんといいものを作るか、そのどちらかがいいのでは?」と提案した。ある人に、「その問いかけは誘導ではないか?」と言われたことがある。そう訊かれたら、誰だって「うんといいもの」を選ぶ、と。そう言われれば、そうかもしれないが、別にそんな意図はなかった。まぁ、僕が「うんといいもの」を作りたかったのは事実だが……。

 沖電気の選択は、「うんといいもの」だった。

 しかも、NECの「PC-8001」よりも、もう少しビジネス寄りの「オフィスパソコン」が作りたいとの要望。そこで、僕はこう提案した。「PC-8001」は、パソコン本体と、ディスプレイ、フロッピーディスク、プリンターをそれぞれコードでつないで稼働させる仕様だったが、今回は、すべてを一体化してはどうか、と。「そうでないと、NECに勝てませんよ?」と言うと、みなさん「それもそうだ」ということで決定した。

 さらに、沖電気は、マイクロソフトBASICだけが動くパソコンではなく、OSを積んで、汎用性の高いパソコンにしたいと希望された。そこで、アメリカのデジタルリサーチ社が1976年12月に発売した「CP/M」というOSを載せ、その上でBASICが動くようにすることになった。当時、マイクロソフトはOSを持っていなかったので、マイクロソフト社内で「CP/M」を採用することに反対はなかった。

発表会に現れた外国人ビジネスマン

 実は、このときすでに、アスキー・マイクロソフトは、デジタルリサーチ社の「CP/M」の日本での独占販売権を取得していた。当時、お世話になっていた大学の先生から、「CP/M」を買ってきてくれないかと頼まれたのがきっかけだった。

 僕は、1977年秋、「CP/M」を開発したゲイリー・キルドールに会うために、デジタルリサーチ社を訪ねた。キルドールの奥さんが、フォルクスワーゲンで空港まで迎えに来てくれた。モントレイ空港という、掘っ立て小屋みたいな小さな空港。今思えば、古きよきアメリカだった。

 そのときのデジタルリサーチ社は灯台通りの床屋の2階で、一部屋しかなかった。社員もたったの4人しかいなかった。多くの8ビット・パソコンに「CP/M」が搭載される前だったからだ。

 そして、僕は、キルドールから、「CP/M」を買うとともに、日本での独占販売権を得る。彼は、ワシントン大学で数学を修め、海軍大学院で教授を務めた人物。海を愛する、紳士的な人物だった。だから、僕が初めて売ったソフトは、マイクロソフトのBASICではなく、デジタルリサーチの「CP/M」だったということになる。

 そんなわけで、沖電気のパソコンに「CP/M」を搭載してもらうのは簡単だった。もちろん、沖電気の設計にカスタマイズするために、アスキーマイクロソフトで「CP/M」にずいぶんと手に入れる必要があり、それはなかなかたいへんな仕事ではあったが……。これをやったのは、後にマイクロソフト日本法人の社長になる古川享さんである。

 このときも、僕は思いつく限りの機能を、パソコンに盛り込もうと思った。

 そのために、BASICをどんどん拡張していったら、メモリー容量がいっぱいいっぱいになってしまった。開発メンバーたちは、「どうすんのこれ?」と頭を抱えたが、独自のメモリー拡張スキームを作って解決。盛り込める限りの機能をBASICに詰め込んでしまった。窮すれば通ず、ということだ。

 そして、1980年5月に、8ビット・パソコンとしては、史上最大の容量を誇る「OKI-BASIC」を搭載した「IF-800」が発売。「業務用志向の本格的パーソナル・コンピュータ」と銘打って売り出したところ、これが大ヒット。沖電気も喜んでくれたし、僕も自信を深める結果となった。

 ただ、このときはまだ、伝説の筋書きが粛々と進んでいることなど、知るはずもなかった。しかし、妙なことはあった。というのは、「IF-800」の発表会に、スーツをビシッと決めた外国人ビジネスマンが現れて、その場で5台も買って行ったのだ。そんな人は、あんまりいない。後にわかるのだが、それはIBMの社員だった。