IBMの密使、現る

 それから2ヵ月ほどたったときのことだ。

 僕は、シアトルのマイクロソフト社で仕事をしていた。すると、突然、ビルが「IBMが来るから用意しろ」とか言って、みんなが大騒ぎになった。「なにごとや?」と思ってビルに訊くと、IBMから密使が訪れるという。僕も、密使との会議に出ることになった。

 後によく知られるようになることだが、当時、大型コンピュータの”巨人”として君臨していたIBMは、新たに勃興したパソコン市場に完全に出遅れていた。要するに、大成功した企業が陥りやすいとされる「イノベーションのジレンマ」にはまっていたわけだ。

 そこで、IBMの社内ベンチャーとしてエントリーシステム事業部「ESD」を立ち上げて、パソコンの開発に取りかかる。そのリーダーを任されたのが、ドン・エストリッジという人物。僕も親しくさせてもらったが、実に聡明で誠実、めちゃくちゃ優秀なビジネスマンだった。

 彼が取った戦略は、当時のIBMの伝統の真逆を行くものだった。IBMは、自社製品は、ネジ一本にいたるまで内製する方針を徹底してきたが、エストリッジは、可能な限り外部調達でまかなうことにしたのだ。パソコンの技術は、大型コンピュータの技術は全く違う。内製化しようとすれば膨大な時間がかかってしまうからだ。

 それよりも、最も優れた部品やソフトを外部調達して、組み合わせれば、最速で最高のパソコンが作れる。ただし、要所要所にIBMオリジナルの技術を入れ込むことで、簡単に他社がコピー製品を出せないようにガードする。簡単に言えば、そんな賢明な戦略を取ったわけだ。

 実際、エストリッジがマイクロソフトに遣わした密使は、僕たちに「BASICがほしい」と単刀直入に求めた。

 驚いたのは、彼らが求めたのは、沖電気の「IF-800」用につくった「OKI-BASIC」だったことだ。もちろん、僕たちに異論などあろうはずがない。巨人IBMがマイクロソフトBASICを使ってくれれば、そのビジネス上のインパクトは半端なものではない。ビルも迷わずOKを出した。(つづく)

マイクロソフト成功の“決定的な瞬間”に立ち会った日本人は、「何」を目撃したのか?西 和彦(にし・かずひこ)
株式会社アスキー創業者
東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクター
1956年神戸市生まれ。早稲田大学理工学部中退。在学中の1977年にアスキー出版を設立。ビル・ゲイツ氏と意気投合して草創期のマイクロソフトに参画し、ボードメンバー兼技術担当副社長としてパソコン開発に活躍。しかし、半導体開発の是非などをめぐってビル・ゲイツ氏と対立、マイクロソフトを退社。帰国してアスキーの資料室専任「窓際」副社長となる。1987年、アスキー社長に就任。当時、史上最年少でアスキーを上場させる。しかし、資金難などの問題に直面。CSK創業者大川功氏の知遇を得、CSK・セガの出資を仰ぐとともに、アスキーはCSKの関連会社となる。その後、アスキー社長を退任し、CSK・セガの会長・社長秘書役を務めた。2002年、大川氏死去後、すべてのCSK・セガの役職から退任する。その後、米国マサチューセッツ工科大学メディアラボ客員教授や国連大学高等研究所副所長、尚美学園大学芸術情報学部教授等を務め、現在、須磨学園学園長、東京大学大学院工学系研究科IOTメディアラボラトリー ディレクターを務める。工学院大学大学院情報学専攻 博士(情報学)。Photo by Kazutoshi Sumitomo