第二に、ソフトウエアの不具合であるバグの問題だ。すでに数多くのパソコンで稼働しているマイクロソフトBASICにバグの可能性は低いが、独自のBASICを採用したら、発売後にどんなバグが発見されるかもわからない。「それでもいいのですか?」と訴えたのだ。まぁ、さりげなく脅したわけだ。
おそらく、これが決め手になった。何度も何度も交渉を重ねた末に、ついにNECは、極秘裏に始動しつつあった「PCX−01」に、マイクロソフトBASICを採用することを決めてくれた。
これは、本当に嬉しかった。これで、高校時代からずっと夢見てきた「理想のパソコン」をつくることができるのだ。目の前がパァーッと開けたような気がした。「こいつは、本当に仕事ができるのか?」と、僕に対する疑念があったはずのビル・ゲイツも大喜びしてくれた。そして、心から僕のことをビジネス・パートナーとして信頼してくれるようになったと思う。ビルに限らず、VIPに信頼されるためには、「百の言葉」を費やしてもダメだし、「行動」で示すだけでもダメだ。「結果」を示すことこそが、VIPの信頼を勝ち得る唯一の方法なのだ。
「通信機能」を搭載した初のパソコン
その後、NECは、僕の提案も反映しながら、「PCX−01」の試作品を制作。それを、シアトルのマイクロソフト社に運び込んで、「PCX−01」のためのBASICの開発が始まった。
陣頭指揮を取ったのはビル本人。僕も、この開発にどっぷりと関わった。ほとんどマイクロソフト社に行きっぱなし、泊まりっぱなしだったと思う。僕の提案の多くをNECが取り入れてくれていたため、僕がいなければBASICの仕様も決まらない。しかも、BASICの新しい機能を加えるのは僕の仕事だった。
このとき、僕が拡張した機能はいくつもあるが、特に重要なのは「ターム(TERM)」というものだった。この機能があれば、パソコンを他の大型コンピュータなどと通信で繋いで、大型コンピュータのターミナル(端末)として使えるのだ(TERMINALの一部をとってTERMと名付けた)。後に広がる「パソコン通信」の基礎となる機能だった。
思い余って、やりすぎたこともあった。
「あれもこれも」とBASICの機能を拡張したため、フル装備するとデータが重くなりすぎて、8ビットの「PCX−01」の手に負えなくなってしまったのだ。仕方なく、機能を削ったり、プログラムを短くする努力をした。やむなく妥協したわけだが、それでも「これは間違いなく、日本初の本格的パソコンになる」と確信していた。
空前の大ヒットを記録した”デビュー戦”
そして、すったもんだの末に「PCX−01」はほぼほぼ完成。はじめてお披露目されたのは、1979年5月に開催されたマイコン・ショーだった。
マイコン・ブームの真っ最中だったから、会場は熱気に溢れていた。特に、日本初の本格的なパソコンのお目見えとあって、「PC−8001」と名付けられた「PCX−01」は、来場者の注目を集めた。NECのブースには人だかりが絶えなかった。
このとき、NECのブースで、マシンのデモンストレーションをしていた一人が僕だった。「PC−8001」の中身をいちばんわかってるのは僕。だから、NECのグリーンの背広を着て、社員のような顔をしながら、マシンを動かしていたのだ。