牧田和男さんのミュージシャン人生が反映

 牧田さんが日本フォノグラムとプロデューサー・ディレクター契約を結んだのは91年のことだった。この年は「ミス・サイゴン」の練習中で、本田さんは日本フォノグラムと91年に契約したものの、中橋昌史さんは「ミス・サイゴン」の終了までポップスのアルバム制作は封印していた。牧田さんは91年に自分のレーベルも立ち上げ、演奏家から音楽プロデューサーに転じていた。

 1955年神戸市生まれ。小学校高学年で加山雄三さんの歌を聴き、ギターを買う。60年代の加山雄三作品の作詞は岩谷時子さん、ディレクターは渋谷森久さんだったわけだから、やはり人生は回り舞台である。

 中学1年で近所の大学生にギターのコードを教えてもらい、曲作りをはじめる。中学2年の終わりに毎日放送のオーディション番組に合格し、放送局に出入りするアマチュア音楽家になった。当時、高校生や大学生が大半で、中学生は珍しかっただろう。

四季の「あやつり人形」(エレックレコード、1974年6月)。ジャケット写真の右下が牧田和男さん。デビュー曲の作詞作曲者でもある。

 高校2年(1972年)でヤングジャパン(音楽事務所)に入り、コンサートで歌うようになる。セミプロ高校生である。74年に高校を卒業して上京、明治学院大学の二部に入学する。同時にエレックレコードから「四季」というバンドでデビューシングルを6月に発売し、大学へは行かなくなる。

 エレックレコードは1969年から76年まで存在したレコード会社で、吉田拓郎など当時のフォークを中心に制作・販売していた。「愛」というレーベルを設け、ギターをかき鳴らして歌い叫ぶフォークとは別に、都会的なポップス路線の曲をまとめていた。牧田さんの「四季」もこのレーベルでデビューした。

 しかし、74年9月に2枚目のシングル「恋はかげろう」を発売すると、メンバー間の離反で「四季」は休止、シングル盤を4ヵ月で2枚出して神戸へもどる。事務所に所属するほかのバンドに呼ばれてギターからベースに転じ、76年には再び上京して無数の舞台やレコーディングに参加するスタジオ・ミュージシャンとなった。21歳だった(有名なバンドでは「海援隊」でベースを担当していた)。

 20代で作曲・編曲家の総領泰則さん(1949-)に師事し、80年代には振付師、家城比呂志さん(1944-)などのもとで10本ほどのミュージカルの音楽を担当していた。そして90年代にプロデューサーとしてレーベルをつくると同時に日本フォノグラムなど、大手レコード会社と次々にプロデューサー契約を結ぶようになっていた。

 80年代のアイドル歌手のバックバンドでもかなり演奏したそうで、アイドル歌手は打ち合わせどころか、時間が来るとスタジオにやってきて、歌って帰るだけだったのが若いミュージシャンらには不満だったようだ。