本田美奈子さんは初演版「ミス・サイゴン」(★注①)上演中、1993年3月1日に第30回ゴールデンアロー賞演劇新人賞を受賞し、初めてミュージカル女優として評価されることになった。「ミス・サイゴン」は1年半、連続745回上演、111万3914人を動員し、当時の記録的なヒット作となった。アイドル時代の盛名は復活したのである。
「ミス・サイゴン」で出会った岩谷時子さんの軌跡
最終日(93年9月12日)を経て、本田さんはすぐに歌手活動復帰へ準備を始めた。「ミス・サイゴン」の訳詞者である岩谷時子さん(1916-)とは肝胆相照らす仲となり、「ミス・サイゴン」上演中から本田さんの新しいポップスを創作することを話し合っていた。本田さんはこのとき26歳、岩谷さんは77歳である。
★注①「ミス・サイゴン」の新演出2012年版の公演がこの7月1日から始まっている。7月21日から広島、名古屋(以上7月)、甲府、厚木、東京(以上8月)、仙台、北九州(以上9月)、浜松、大阪(以上12月)、熊本、松本、盛岡(以上13年1月)と、東北から九州まで巡演する。「新演出版は装置もオーケストラも簡素になる予定」、と連載第1回に書いたが、いやいやどうして、やはり大掛かりな舞台装置で圧倒された。
簡略になったのは実物大ヘリコプターが映像になったことだが、それでもよく練り上げられた装置である。オーケストラの人数が減った分、電子楽器や打楽器で補強している。アレンジもだいぶ変わった。弦楽器が少ないのでシンフォニックな印象は薄くなったが、全体にテンポ感が速くなり、緊張が持続する。筆者が見たキムの笹本玲奈さん、クリスの山崎育三郎さんはともに説得力のある歌唱と演技だった。市村正親さんをはじめ他の出演者も極上の演技を見せてくれる。非常に写実的な演出で、最後のシーンには息を呑むだろう。
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神戸女学院英文科を卒業した岩谷時子さんは1939(昭和14)年に22歳で阪急の宝塚歌劇団に入社し、出版部で雑誌「歌劇」や「宝塚グラフ」の編集者となった。
一方、宝塚音楽歌劇学校から同歌劇団に入っていた越路吹雪さん(1924-80)は、この年(1939年)に初舞台を踏んでいる。岩谷さんは入社した年に越路さんと出会い、亡くなるまでマネジャー、訳詞家、作詞家、プロデューサーとして寄り添ってきた。
戦争を挟んで1951年、越路さんとともに宝塚歌劇団から東宝へ移籍して東京へ移り住む。この間の阪急、宝塚、東宝の創業者、小林一三(1873-1957)と越路吹雪さん、岩谷時子さんをめぐる物語はまたいずれ。
話を先に進める。翌52年には越路さんが歌う「愛の讃歌」「ろくでなし」の訳詞を岩谷さんが書き、作詞家として広く知られるようになる。その後は1970年代末まで越路さんのほか、加山雄三さん(1937-)、ザ・ピーナッツ、ピンキーとキラーズ、郷ひろみさんの歌詞を量産し、日本を代表する作詞家となった。
60年代以降の越路さんと加山雄三さんのヒット曲は東芝音楽工業(73年-東芝EMI、2007年-EMIミュージック・ジャパン)から発売されている。大半の作品をディレクターとして担当したのが渋谷森久さん(1939?-1997)だった。渋谷さんと岩谷さんは、日本のポピュラー音楽史にその名を残す音楽プロデューサーである。