ポップスの新作アルバムを1994年、95年と2年続けて発売した後、96年に東宝ミュージカル「王様と私」に出演することになった。「王様と私」の日本初演は1965年、前回(第5回)紹介した「屋根の上のヴァイオリン弾き」初演の2年前である。岩谷時子さん(1916-)が初めてブロードウェイ・ミュージカルの訳詞を手がけた作品だ。
「65年越路吹雪 96年本田美奈子」と岩谷時子さん
初演から30年後に岩谷さんはタプチムを演じる本田美奈子さんを見ることになった。65年の初演で主役のアンナを演じたのは、岩谷さんが戦前の宝塚歌劇団から行動をともにしてきた越路吹雪さん(1924-80)だった。本田さんは岩谷さんにとって、自作のポップス(「つばさ」など)を歌い、ミュージカルを演じる「第2の越路吹雪」となったのである。
65年の「王様と私」の配役は、王様が市川染五郎さん(1942- 現在の松本幸四郎)。22歳の松本幸四郎さんが初めてミュージカルに出演した作品でもある。タプチムは宝塚に所属したまま淀かほるさん(1930-93)が演じた。初演の会場は梅田コマ劇場、演出・菊田一夫(東宝専務〔当時〕1908-73)、翻訳・森岩雄(東宝副社長〔当時〕1899-1979)、訳詩・岩谷時子、音楽監督・内藤法美(越路吹雪夫君、1929-88)という布陣である。
物語は1860年のシャム(タイ)。一夫多妻の国王には数十人の子どもがいる。西欧列強は次々に海からアジア諸国へやってきて通商を求め、あるいは武力で支配していった。王は子どもたちの一部に西洋式の教育を受けさせて近代化の準備をしようと、英国からアンナ夫人(未亡人)を招き、宮殿で英語や地理を教えさせる。
ここからアジアの専制君主と教養のある英国夫人との和解と衝突のドラマが始まる。東洋と西洋の出会いという面では「蝶々夫人」や「ミス・サイゴン」と同じだ。
もう1人の重要な登場人物がタプチムで、若く美しいビルマ(ミャンマー)の女性である。彼女はビルマからシャム国王への貢物として送られてくるのだが、エスコートしてきたビルマの青年ルンターとは恋人同士だった。2人の逃亡と悲劇がサブストーリーとして進行する。
原作は米国の作家マーガレット・ランドン(1903-93)が1944年に上梓した小説『アンナとシャム王』である。アンナ夫人は実在した英国のアンナ・レオノウエンズ(1831-1915)で、1860年代にシャム王室で家庭教師の経験がある。ランドンが1930年代に入手したアンナの記録をもとに小説にしたものだ。