佐藤優氏絶賛!「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」。「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道、儒教、ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』が発刊された。コロナの時代の必読書である、本書の内容の一部を紹介します。連載のバックナンバーはこちらから。
黄泉の国
人間が死ねばどうなるかについての、最初のまとまった記述が、古事記と日本書紀にある。八世紀初めのテキストだが、もっと古い時期の伝承を反映しているだろう。
イザナギとイザナミは、日本列島を生んだ夫婦の神である。妻のイザナミが出産の事故で亡くなり、黄泉(よみ)の国に去ってしまった。夫のイザナギはそれを追って、妻に会いに行った。妻のイザナミは醜い姿となって、鬼の女たちを従えていた。姿を見られて激怒した。
イザナギは逃げ、イザナミは追った。イザナギは、この世と黄泉の国とを分ける坂道を岩で塞ぎ、岩を挟んでイザナミと言い合いになった。イザナミは、この世の人びとを死者の国に連れ去ると言う。イザナギは、もっと多くの人びとがこの世に生まれると言い返す。イザナギが、黄泉の穢れを祓(はら)うと、アマテラス、スサノヲ、ツクヨミの三柱の神が生まれた。
イザナミの死をめぐる、有名なエピソードだ。
古事記がこの話をこのかたちで編集したのは、当時の人びとが、この話を聞き知っていて、納得していたからであろう。その要点をまとめてみると、
a ひとは死ぬと、黄泉の国に行く
b 黄泉は、地底にある
c 黄泉には、鬼や悪神がおおぜいいる
d 黄泉は、死の穢れにまみれている
e 黄泉とこの世は隔てられて、自由に往き来できない
黄泉の国は、横穴式の墳墓を思わせる。もしもそうなら、あまり古い考え方ではないのかもしれない。
本居宣長(江戸時代の国学者)は、人間は死ねば黄泉の国に行くに決まっている、と断言している。日本の古典の卓越した読み手である彼がそう言うのだから、すべての古典がこの考えのなかに収まるとみていたことになる。