古代の人々が考えたこと

 イザナミの死に続く話にはこうある。スサノヲは母が亡くなったことを悲しみ、「妣(はは)が国」に行きたいと大泣きした。そのため植物が枯れてしまうほどであった。黄泉の国と妣が国は、似たような異界だと考えられていたようだ。

 折口信夫(おりくちしのぶ)(民俗学者)は、海の彼方にある「常世(とこよ)」が、死者の赴く妣が国でもあったのだろう、と古代の人びとの心性を想像した。

 農耕が始まったころ、自然はまだ圧倒的で、共同体を取り巻いていた。海の彼方、地の底、山の上などどこであれ、共同体の外側に、人びとの理解の及ばない世界が拡がっていた。それが、異界である。人びとの起源があるとすれば、そこである。異質な他者もそこからやってくる。神々はそうした客人(まれびと)である。人びとは死者となってそこへ帰っていく。折口はそうした古代の心性に、文学の根源をみた。

 山の上であれ、地の底であれ、海の彼方であれ、共同体の空間的な遠方に異界があると想像する心性は、プリミティヴなものである。共同体とほかの共同体との交流は、密でない。進んだ文明地域からの文物や情報の流入も、乏しい。

 農耕が発展すると、共同体間の交流が深まっていく。それに応じて、人びとの異界の観念も変化していく。

日本の神々の特徴

 イザナミの死の物語の重要な点は、神も死んでしまうことである。一神教の神(God)は死なない。死ぬことはありえない。永遠に存在して世界を支配し、人間の生き死にを管理する。被造物が死ぬのは、神の命令だ。

 これに対して、日本の神々は、もとはと言えば、山や川や海や、巨木や岩や、鳥やけものや、太陽や月といった、日本の自然である。自然であるから、自然の定めによって、死ぬこともありうる。死は自然であるので、死もまた神として存在する。

 神は、死ぬ可能性がある。ということは、神はもう死んでいるのかもしれない。その点を、人間ははっきり確かめることができない。神も死ぬ。神自身が、死を前にうろたえる。人間と同じである。

 神がそういう状態なら、神が人間を死から守ってくれたりしない。死を前に、神は無力である。神も、死の穢れを恐れる。人間は、神に頼らず、自分だけの考えと力で、死に立ち向かって行かなければならない。これが、日本人の原体験だ。

(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)