佐藤優氏絶賛!「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」。「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道、儒教、ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』が発刊された。コロナの時代の必読書である、本書の内容の一部を紹介します。連載のバックナンバーはこちらから。

「日本」と「中国」では自然を大切にする感覚がまるで異なるワケPhoto: Adobe Stock

道教の自然と死

 死者を死者自体として見つめるのは、道教である。道教は、儒学と別の起源をもち、老子、荘子に始まるという。諸子百家のなかで儒学とともに生き残り、中国の思想文化の骨格をかたちづくった。老荘は、自然を重視する。自然とは、人間の統治の及ばない領域のこと。理想の空間である。

 こう聞くと、日本人も自然を大切にするからおんなじだ、と思うかもしれない。日本と中国では、自然の感覚がまるで異なるので注意しよう。

 中国は、早くから農耕と都市文明が行き渡った。中国に行ってみると、原始林はもちろん、里山のようなものも見当たらない。住居は塀で囲まれ、都市は城壁で囲まれ、すべてが人為的空間である。人為的とは、統治の行き渡る政治の領域、ということだ。中国の人びとが自然に魅力を感じるのは、そうした人為的空間から脱出したいと願う空想(妄想)である。

 儒学は、行政職員を選抜し、統治を行なう。行政職員は競争する。競争に敗れて、左遷されたり失脚したりする人びとも多い。儒学の世界に理想を実現できない人びとは、もうひとつの世界(オルタナティヴ・ワールド)に望みを託す。それが、道教の無為自然の世界だ。道教は、儒学の反世界である。私は道教を、「ウラ儒学」とよんでいる。

 自然のほかにもうひとつ、道教が目を向けるのは、死の世界である。死について、中国の人びとはもともと、あまりはっきりしたイメージを持っていなかった。そこへ仏教が、具体的なイメージをもたらした。輪廻と地獄である。

 仏教によれば、輪廻の範囲は、この人間世界(娑婆)だけでなく、その下方の、修羅(しゅら)/餓鬼/畜生/地獄、という平行世界にも及ぶ。人間は、この世界で死んだあと、行ないが悪いと、地獄に生まれて苦しめられる。

 地獄は、人間が死んだあと、そこに「生まれる」場所である。死者の国ではない。これが、仏教の説く地獄だ。ところが道教は、地獄のイメージを仏教から受け取ると、それを「死者の国」につくり変えた。このほうが、中国の人びとにしっくり理解できた。

 中国では、人間は死ぬと「鬼」になると考える。鬼とは、死者のことである。そこで、死ぬことを「鬼籍に入る」という。死んで鬼になると、地獄に下る。地獄は地上とそっくりで、皇帝(閻魔)がいて、官僚機構があって、人びと(鬼たち)を統治している。死んだ親は、鬼の一般民衆として、地獄で苦労している。そこで、地上に生きる子孫は、死んだ親のため、冥銭(めいせん)を焼いて送る。これが孝行なのだ。(冥銭は地獄で通用するお金で、線香などと一緒に売っている。)

 地獄が地上とまったく同じなら、鬼も死ぬはずだ。実際、鬼も死ぬらしいのだが、そのあと何になるのかはっきりしない。道教はこのように、地獄を死者の世界としてありありと描く。

 道士たちは、呪術や妖術など超自然的なパワーを駆使して、人びとの要求に応えようとする。道士は、道教のエクスパートである。道教の想定する超自然的なパワーは、儒学の行使する政治的なパワー(統治権力)の裏返しの、オルタナティヴ・パワーである。