中国で成功した仏教

 仏教が中国に伝わって、儒学や道教と摩擦を起こした。仏教は、出家して修行することに価値を置く。出家とは、両親を捨て家を離れて、修行者で集団生活をすることである。親を捨てることほど、儒学で親不孝なことはない。儒学からみて、仏教はとんでもない宗教なのだ。

 仏教は中国では、管理の対象になった。仏教の出家修行者の集団(サンガ)は、インドでは、政府から自治を認められている。たとえば出家修行者は、刑事責任を追及されたりしない。逆に、サンガが政治や経済や芸能など、世俗の活動に関与することもない。

 このような仏教が拡まると、孝を大事にする儒学の基盤を堀り崩しかねない。そこで政府は、寺院を管理する行政部門を置き、寺院の役職者をそこに組み込んだ。仏教局ができて、寺院が国立大学になったようなものである。出家も、許可制にした。

 仏教の経典はつぎつぎ、中国語に翻訳された。漢訳仏典である。そのほか、翻訳に見せかけて、多くの経典が中国人の手で創作された。これを、偽経(ぎきょう)という。中国の経典の三分の一は偽経だという。仏教を中国社会の価値観に合わせて変形するための努力である。

 仏教の経典に刺戟されて、道教は多くの経典を創作した。仏教と道教は反目しつつも次第に接近した。そのアイデアのかなりの部分は儒学(朱子学)に流入した。

 中国で仏教として成功したのは、禅宗である。禅宗は、テキストにあまり依拠せず、独特の修行法をもち、経済的にも自立したので、政府の方針に左右されずに存続することができた。

 出家修行者は、家を出て、血縁集団から切り離される。そのため、姓を捨てて法名を名のる。法名は師から与えられる。師弟の系譜は、血縁の系譜のように、重視される。教えの正しさを担保するからだ。儒学の祖先崇拝の考え方が、仏教に投影されたものだ。

 中国では葬儀は、儒学式(あるいは、道教式)で行なう。中国の仏教は、葬儀に関わらない。ただし禅宗では、出家修行者は、出身の血縁集団を離れているので、仏教式の葬儀を行なう。そして、寺の墓に埋葬した。祖先崇拝と関係がない。この点では、仏教の原則に忠実だ。

 その仏教式の葬儀のやり方が、日本に伝わった。やがてすべての宗派が、門徒のために仏式葬儀を行なうようになった。仏教の原則と日本の伝統とがあいまいにミックスされ、よくわけのわからないものになった。葬儀は世俗の仕事だからやってはいけない、が仏教の原則だった。それが、仏教は葬儀しかやってはいけません、になったのだから、皮肉な結果である。

(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)