今も残る無数の爪痕、「への字誘導路」「岩山鉄塔」……

 しかし、その血塗られた歴史と課題が「普通の市民」の意識の上からは消えようとも、彼らの「革命運動」は今も途切れることなく続いている。

 当初は数十団体あった党派の大部分が去っていったが、今も4つの党派がそこで活動を続ける。また、毎年3月と10月に開かれる集会・デモ、農地などの収用に対する裁判や署名活動など、空港建設反対運動の支援を行うなどしている。

滑走路と農地が隣接。デモの際には大量の機動隊が
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 現在でも空港の周囲にはいくつもの爪痕が残っている。その一つは「への字誘導路」だ。

 近年、幾度か新聞記事にもなったために記憶している方もいるであろうが、成田空港のB滑走路にある誘導路(飛行機が滑走路とターミナルの間を移動するための通路)は、不自然に「への字」型に曲がっている。なぜか。それは、「への字」の下部に未買収地が残っているからだ。本来なら直線に開通させるはずの道路が、その「障害物」によって曲げられている。

 その一部は、ここ数年の裁判などを通して、事実上、国・空港側のものとなっていったが、いまだ住民の手で管理されている農地もある。そこでは、従来からそこにいた農民と、今も「成田空港廃港」を掲げている複数の新左翼・「過激派」党派による「援農」要員によって、農作物の栽培が行われている。

 他にも同様の「未買収地」は残り、農地の上空40mをジャンボジェット機が通過するところもある。

「岩山記念館」からはA滑走路を見渡すことができる
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 もう一つだけ爪痕をあげておこう。反対同盟が「岩山記念館」と呼ぶ建造物がある。

 その上に立って北西側を向くと、眼前には4000mのA滑走路が真っ直ぐに延びているのが見える。すると、助走を始めた飛行機がこちらに直進してきた。コックピットのパイロットと目が合っているような感覚にすら陥る。その機体がふわっと浮き上がると、一瞬の後に頭の真上を通過していった。

 かつて、この建造物の上には、1972年に反対派が建てた高さ100mに及ぶ巨大な塔「岩山鉄塔」があった。滑走路の延長線上の最も空港に近い敷地に塔を建てることによって、飛行機の離着陸を妨害していたのだった。

かつて100mの鉄塔があった「岩山記念館」の真上を飛行機が通過する
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 反対派は「開港阻止」を掲げながら、「岩山鉄塔」以外にも様々な手段を講じていった。だが、開港は実現することとなる。鉄塔の撤去を巡る攻防は激しくなり、1977年4月、2万3000人が集まった「鉄塔防衛全国総決起集会」のデモは、逮捕者7名、負傷者100名以上を出すほどのものであったが、結局、同年5月にはこの鉄塔が撤去され、翌年の開港につながっていった。

 鉄塔の土台のみが残ったこの敷地の中には、今も活動家が住み続けているという。