忘れられた「途上国」の人々

集会があっても、「野戦病院」にはかつてのように死傷者が運び込まれることはない
拡大画像表示

 モノクロの映像の中には、今では整然とコンクリート舗装された成田空港のかつての姿があった。

 農作業着姿のまま、地面に打ち付けた杭に自らを鎖で結びつけた老人たちは、はじめこそ「絶対に動かない!」と叫び散らしていたが、棍棒を持った機動隊に袋叩きにされると立ち退いていく。ヘルメットをかぶった「少年行動隊」の子どもたちも、機動隊めがけて消石灰のような粉を投げつけるが、身体を持ち上げられ、泣き叫びながら連れ出されていく。

 はじめてその映像を見たとき、「どこの途上国だよ……」と絶句した。

 上野から電車で一本、1時間10分ほどで京成線成田駅に到着する。「成田山」で有名な駅の周辺には寺や土産物屋・旅館などが立ち並び、賑わっているようにも見える。しかし、駅から少し車を走らせれば、たちまちそんな光景は消え、目に飛び込んでくるのは田畑と山ばかり。かつてこの地は、森と竹林に覆われていた。そして、移住してきた者たちによる困難な開拓の末に築き上げた農業で成り立つ地域だった。

空港近隣には今も廃港を求める農家がある
拡大画像表示

 1962年、今からちょうど半世紀前のこと。日本の経済成長はめざましく、羽田空港における国際線の便数・利用客数の増加への対応策として、新国際空港の建設計画が持ち上がる。翌年にはいくつかの候補地の名があがるなかで、現在の成田国際空港が位置する地域が最有力候補となる。そして、農民による土地を守る反対運動として「三里塚闘争」が始まっていった。

 その歴史をここで単純化して振り返ることはできない。あまりにも重層的で複雑なそれを、紙幅が限られる中で語ることは困難だ。ここでは、そこにあった歴史を、空港建設反対運動と新左翼・「過激派」との関わりの中でまとめるに止めよう。

 成田空港建設の閣議決定と建設反対運動の激化は1966年からのこと。初期の空港建設反対運動は、議会に議席を持つ社会党・共産党によって支援されていた。しかし、計画が具体的かつ強引に、暴力的に進められていくなかで、「暴力には暴力で対抗しなければその勢いを止められない」という気運が生まれ、60年代末までに両者は決裂していく。そして、新左翼・「過激派」だけがそこに残った。

 いくらか残る大衆的な共感を軸に運動は続いていくが、空港建設・開港(1978年)への流れは止まらず、「資本主義の打倒」をうたいながら、暴力・テロをも辞さない「暴力革命」を先鋭化させていく勢力は強まる。農民や活動家と同様に、機動隊にも死傷者が出始めていた。

 1978年3月の開港予定時期には、三里塚闘争に興味はなくても名前を知る人が多いであろう「管制塔占拠事件」が起きている。また、開港の後には、党派間での「内ゲバ」が激化し、空港関係者など一般人にも死傷者があった。

 その結果、この運動に関わった新左翼・「過激派」は、「普通の市民」からより一層目を背けられるようになっていく。それと同時に、成田空港が今に至るまで抱え続けてきた問題までも「普通の市民」から見えにくい場所へと追いやられていった。