特別掲載号のはしがき
前回掲載号で僕のパートは終わるハズだった。
でも、どうしても皆さんに伝えておきたいことがあった。
世の中には「偉人」と呼ばれる人たちがいる。前々回(9月4日)と前回(9月18日)の記事にも書いたように、僕は自分の人生を支える「背骨」のようなものを、そうした方々の言葉を通して得てきた。どの言葉も、「あの時、出会っていなければ……」と思うと、空恐ろしさを覚えるような貴重なものばかりだ。
「特例」として掲載する今回の記事では、僕が人生で出会った「最高の言葉」の数々を皆さんに伝えていきたい。人の出会いは一期一会だが、言葉との出会いもまたそうであると思うから。
さめることのない大きな「夢」を見たい
夢はさめる。さめるから、夢なのかもしれない。
どうせ見るなら、さめて後味の悪い夢よりも、もう一度見たいと思える夢のほうがいいに決まっている。更に願うなら、さめることのない大きな夢を見続けていたい。
夢というと、儚(はかな)さをイメージしてしまう。
芭蕉が詠った「夏草や……(注1)」、信長が好んで舞った「敦盛」の一節(注2)や秀吉の辞世の句(注3)より発せられる「夢」という言葉からは、それが強く伝わってくる。
(注1) 夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡(あと)
(注2) 人間五十年、化天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
(注3) 露と落ち 露と消えにし わが身かな 難波(なにわ)のことも 夢のまた夢
でも、仕事をする者が「僕には夢がある」と言う時の「夢」には、「儚さ」とは真逆の「揺るぎなさ」がなくてはならない。「こんな風になりたいなぁ」とか「こんなコトやりたいなぁ」ではなく、僕は、「こうありたい」もしくは「こうしたい」と明確に描くべきだ。
僕が自分の夢をはっきり意識したのは、前回の記事に書いた通り、37歳の時だった。「〈イーパーセル〉の技術で世界を変える」、その夢を全力で追いかけることを決心した。そして、心をこめて打ち込むほどに、さめることのない大きな夢へと成長した。