「利他のこころ」とは、「無私」とは、何か?

 ―― 自分のことは後まわしにしてでも、他人のために社会のために尽くしたい。格好いい言葉だ。決め付けてはいけないが、格好がいいからこそ、誰だって「そうありたい」と本心では思っているに違いない。

 8年くらい前だっただろうか、京都の金閣・鹿苑寺(ろくおんじ)執事長(当時は親寺の相国寺派宗務総長だった)をなさっていた名物和尚(江上泰山老師)を、足利尊氏の墓所として名高い「等持院(とうじいん)」近くのご自坊に訪ねた。

 年に数度の恒例の季節のご挨拶だった。奥様が、近所の和菓子屋の売り切れ御免の珍しい栗鹿の子とお抹茶でもてなして下さった。あっさりした和栗の甘みとお茶の渋みが抜群の組み合わせだった。京都を訪ねる度、いつも感心するが、一つひとつにおもてなしの心が行き届いている。

 この席で、老師様から、「利他(りた)」という言葉を教わった。初めて耳にする言葉だった。「利己(りこ)」の反対語と言えば言葉そのものの理解は可能だ。そして、「利他のこころ」とか「利他業」について、老師様のご高説を拝聴した。

 読んで字の如く、他を利する、そう「他人の利益を重んじる」考えをいう。悟りの境地を経験していない所為だろうか、僕には少し哲学的で難しく感じられたが、「他人の幸せを願うピュアな心がけが、ひいては自分に幸せをもたらす」と理解すれば、「なるほどな」と合点がいく。

 「他人のために社会のために尽くす」。そういう心を持って仕事する時、肝心なのは、そこに自分が「有る」か「無い」か、だ。そこに不要な自分があると、目の前の小さなことに捕らわれてしまって、人は必ず本質を見誤る。つまり、大切なのは、そこに自分がないこと。即ち、それは「無私」。自分をなくすことができるかどうか、そこにすべてが懸かっている。

 「利他のこころ」を養い、「無私」を磨く、そこに皆さんの答えを探す大きなヒントが眠っていると信じる。言葉で言うほど簡単じゃないことは分かっているが、この言葉に触れた以降は、少しでいいから、これらを意識して一日一日を過ごしてみたらどうだろうか。違った世界が見えてくるはずだ。