IT黎明期に日本のみならず世界を舞台に活躍した「伝説の起業家」、西和彦氏の初著作『反省記』(ダイヤモンド社)が出版された。マイクロソフト副社長として、ビル・ゲイツとともに「帝国」の礎を築き、創業したアスキーを史上最年少で上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、全てを失った……。20代から30代にかけて劇的な成功と挫折を経験した「生ける伝説」が、その裏側を明かしつつ、「何がアカンかったのか」を真剣に書き綴ったのが『反省記』だ。ここでは、アスキー創業後すぐに生み出した、あるイノベーションについて振り返る。

孫正義氏が仕掛けた“MSX戦争”が、あっけなく決着した舞台裏【西和彦】松下電器(左)とソニー(右)の「MSX」

孫正義氏から「挑戦状」を叩きつけられた

 パソコンの統一規格をつくる――。

 その理念のもと、アスキーが「MSX」というブランドを立ち上げたのは、1983年のことだ。

 今では、どのメーカーのパソコンを使っても、何不自由なくデータを共有することができるが、当時は、それができなかった。多くのメーカーが独自のハードウェアをつくり、僕が社長を務めていたアスキー・マイクロソフトが、それぞれの仕様に合わせて、マイクロソフトBASICを大幅にカスタマイズして“移植”していたから、メーカーごと、機種ごとの互換性がなかったのだ。

 ユーザーにとって不便極まりない状況を変えなければ、パソコンが「一家に一台」普及することはありない。そう考えた僕は、ビル・ゲイツとともに、パソコンの統一規格「MSX」を構築するとともに、日本メーカーに参画を呼びかけた。そして、松下電器、ソニー、日立、東芝、三菱、富士通、三洋、日本ビクター、パイオニア、京セラ、キヤノン、ヤマハなど錚々たるメーカーが参画を決断してくださった(ここまでの経緯の詳細は連載第18回参照)。

 そして、1983年6月16日に共同記者発表会を開くことを決定した。

 世間の注目を集めるためにも、僕は、参画各社の経営首脳に記者発表会に登壇してほしいと依頼して回った。みなさんが登壇してくださることになったが、特に嬉しかったのは、MSXからの撤退を決めていた、NECの大内淳義副社長が記者発表会への参加を決断されたことだった。これは、本当にありがたかった。

 しかし、こうして準備万端整ったところに激震が走った。