「あの西和彦が、ついに反省した!?」と話題の一冊、『反省記』(ダイヤモンド社)が出版された。マイクロソフト副社長として、ビル・ゲイツとともに「帝国」の礎を築き、創業したアスキーを史上最年少で上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、全てを失った……。IT黎明期に劇的な成功と挫折を経験した「伝説の起業家」が、その裏側を明かしつつ、「何がアカンかったのか」を真剣に書き綴った。ここでは、20代でビジネス界の”超大物”たちとビジネスを繰り広げた経緯を振り返る。

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「営業マン」と「開発者」の二重生活

 僕がはじめて、ビル・ゲイツと一緒にソフトウェアを開発したのは、1978年に発売されたNECの「PC-8001」だった。これで状況は一変した。

 NECには僕が必死で提案を繰り返して、やっとの思いでマイクロソフトBASICを買ってもらったが、「PC-8001」の大ヒットを目の当たりにした国内のメーカーから、次々と声がかかるようになったのだ。

 当初は、メーカーから「来てください」と呼ばれて、僕のほうから伺っていたが、仕事が忙しくなりすぎてそれもできなくなった。結果、各メーカーの担当者が、アスキー・マイクロソフトに来訪してくださるようになった。待合スペースを覗くと、各社の担当者が、極秘の試作機を抱えてパーテーションを挟んで並んでいた。

 そして、僕は、いくつものパソコンの企画、設計に参画した。
 NECパソコン「PC-8800」
 日立パソコン「BASIC MASTER L3」
 沖電気パソコン「IF800」
 IBMパソコン「5510」
 EPSONのポータブルコンピュータ「HC-20」
 京セラのOEMによるハンドヘルド・コンピュータ「タンディ M100」「NEC-8201」「オリベッティ M10」などなど。

 一年にひとつはヒットを飛ばしていた。

 まさに快進撃だった。

 もちろん、どれもメーカーのみなさんが作り上げた製品だが、僕のアイデアや意見はほとんど取り入れていただけていたから、僕にとっては、ありったけの愛情を注いだ「僕の作品」でもあった。

 この頃、僕はマスコミでもてはやされたりもしたが、本人はそれどころではなかった(もちろん、嬉しかったけど)。各メーカーの意向を聞きながら、「理想のパソコン」をつくるために、そして、目の前の問題を解決するために、日本とアメリカを行ったり来たりしながら、必死で駆けずり回っていただけだった。

 生活の本拠はマイクロソフト社のあるシアトルに置いていた。その後、アスキー・マイクロソフトでも、ソフトを開発する環境を整備したが、初期の頃は、ソフトを書く仕事は、大型コンピュータのあるシアトルのマイクロソフトでしかできなかったのだ。

 帰国したときは、ホテルオークラを定宿にした。当時、テレックスが便利に使えるのは、このホテルだったからだ。そして、朝6時から深夜12時まで30分刻みでさまざまな商用をこなし、夜はほとんど毎日接待だった。それでどうなったかと言ったら、それまでは細く痩せていた僕がブクブクと太って、肝臓も悪くなった。アルコール性肝炎だった。

 そうやって頑張って、国内メーカーと商談をまとめるとアメリカに戻って、スーツ姿の営業マンから開発者のいでたちに変わる。そして、ビル・ゲイツやポール・アレンと議論をしながら、開発中のマシンのための開発に励むのだ。だいたい1~2週間おきに日本とアメリカを行ったり来たりする生活だった。