IT黎明期に日本のみならず世界を舞台に活躍した「伝説の起業家」、西和彦氏の初著作『反省記』(ダイヤモンド社)が出版された。マイクロソフト副社長として、ビル・ゲイツとともに「帝国」の礎を築き、創業したアスキーを史上最年少で上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、全てを失った……。20代から30代にかけて劇的な成功と挫折を経験した「生ける伝説」が、その裏側を明かしつつ、「何がアカンかったのか」を真剣に書き綴ったのが『反省記』だ。ここでは、アスキー創業後すぐに生み出した、あるイノベーションについて振り返る。

マスコミで「二卵性双生児」と言われた、若き日のビル・ゲイツ氏(左)と西和彦。

「完成品のイメージ」を売り込む

 僕がビル・ゲイツと出会ったきっかけは、1978年にある雑誌の小さな記事を読んだことだった。

 その記事には、名前を聞いたことがある程度だった「マイクロソフト」という会社が開発したソフトウェア(マイクロソフトBASIC)が、アメリカのパソコンの標準仕様になることを示唆する情報が書かれていたのだ。それを読んだ僕は、その日のうちにビル・ゲイツに”直電”。アメリカに飛んでいって、一緒にビジネスをすることにしたのだ(このあたりの詳しい経緯は連載第2回)。

 そして、ビル・ゲイツとわずか3ページの契約書を結んだ僕は、1978年10月にアスキー・マイクロソフト設立すると、即座に行動を開始した。狙いは「TK−80」。NECが1976年に発売した日本初のマイコン・キットで、マイコン・ブームの火付け役となった画期的な製品だった。

 これに、マイクロソフトBASICを載せて、日本初のパコソンをつくる。当時、アメリカを席巻していた、アップルの「アップルⅡ」、コモドールの「PET2001」、タンディの「TRS−80」を凌ぐものができると考えていた。

 しかし、最初はまったく相手にしてもらえなかった。