『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』が10万部を突破! 本書には東京大学教授の柳川範之氏「著者の知識が圧倒的」独立研究者の山口周氏「この本、とても面白いです」と推薦文を寄せ、ビジネスマンから大学生まで多くの人がSNSで勉強法を公開するなど、話題になっています。
この連載では、著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。(イラスト:塩川いづみ)
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら

「文学なんて役に立たない」という人が知らない世界の本質Photo: Adobe Stock

【質問】
 私は大学で文学を学んでいますが、同時に虚学であることも知りました。お金と時間と周りの人の協力があってまで、私は大学まで文学を勉強しても良かったのですか?

 自分が学んだことを、誰かのために役立てる方法が思いつきません。

 読書猿さんのブログの「家庭環境と読書の習慣のこと」の最後で、司書さんのお母さんが「自分だけのために学ぶのではなく、次の人たちに渡すために学んで欲しい」と書かれていました。

 私は大学で文学を学んでいますが、同時に虚学であることも知りました。お金と時間と周りの人の協力があってまで、私は大学まで文学を勉強しても良かったのですか?

文学がなければ、世界はもっと無知で悲惨な姿をしている

[読書猿の回答]
 もちろんです。

 知の営みは(生態系をなす生物のように)互いに依存し合い結び合っていて、直接役に立たないように見えても、他の知を支えることで間接的に役立つことがあると思っています。

 飢えた子の前に文学は無力だといったサルトルに対して、リカルドゥはその悲惨を知って同情する想像力、何とかすべきと考える判断力を養う文化の一翼を文学が担っていると主張しました。

 迂遠に見えても、こうした知のエコシステムの存在を体感し伝承する人たちがなくなれば、我々の世界は、もっと無知と悲惨に埋め尽くされるように思います。

 どうか胸を張って学んでください。そして知の喜びをいつか誰かに伝えてください。

(少し長くなりますが、リカルドゥの主張の出典を追記しておきます)
「子供が飢えで死んでいくということ、それは確かに堪え難い。だが、そうした出来事をスキャンダルとして感じさせるその理由というものを探っていくと、すぐさま文学もまたその一つとしてあずかって大いに力があるということがわかってくる。まさかサルトルが、毎日ラ・ヴィレット居殺場で組織的に行なわれている無数の虐殺に、大いに気を揉むなぞという話は聞いたこともない。いうまでもないことだが、大量死刑に処されるこうした連中が、文学には縁もゆかりもなかったからである。『嘔吐』も決して読めはしなかっただろうし、また、ものを書くことも決してなかっただろう。文学というもの(さらに一般的には“芸術”は、言葉と読書という二重の次元において、人間というものを識別する数少ない行動の一つなのだ。いろいろな高等哺乳類があらわれてくるのは文学によってであり、ある特殊な容貌がそこに描きだされてくるのも文学を通してなのである「ではいったい、『嘔吐』に何ができるのか? 明らかに、この書物(や他の何冊か……)は、ただ単にそれが現存するだけで(また、のちにみるように、その虚構がいかなるものであっても)、そのなかにおかれれば子供の餓死がスキャングルとなるような空間を決定づけているのであり、その死に対してある意味を与えているのである。世界のどこかに文学というものが現存していないならば(この現存という語は、最も強い意味に解さねばならぬ)、子供の死は、屠殺場での一動物の死以上の意味はほとんどなくなるであろう。
(リカルドゥー『言葉と小説』(紀伊國屋書店、1969)収録「文学という名の問題」p.19)