コロナ禍が「日本の製造業」を復活させるチャンスでもある理由

ビル・ゲイツとともにマイクロソフトの礎を築き、創業したアスキーを日本のIT産業の草分けに育てるなど、偉大な足跡を残しながら、その後、両社から追い出され全てを失った西和彦氏。そんな西氏の「半生」を『反省記』として著した本が大きな話題となっている。
西氏が大活躍した1980年代は、パソコンをはじめとする日本の製造業が非常に元気な時代だった。西氏は、その牽引者のひとりだったと言えるだろう。当時から、日本の製造業をウォッチし続けてきた西氏に、「なぜ、日本の製造業が衰退してしまったのか」、そして「これから日本がやるべきこと」「日本のデジタル化が進む未来」についてたっぷりと話を聞いた。(取材・構成 イイダテツヤ/撮影・疋田千里)

――かつては「ものづくりニッポン」として隆盛を極めていたはずの日本の製造業は、なぜ衰退してしまっんでしょうか?

 その一番の理由は、日本から工場が出ていってしまったからだと、僕は分析しています。台湾、中国、ベトナム、タイなど、どんどん工賃の安いところに工場を移してしまったのが一番の間違い。

 国内に工場を持ったまま、それを回して、どんどん改良していく。その努力を続けるべきだったんです。スキルを貯めていくことをやめて、学習のプロセスを捨ててしまったのが一番よくなかったですね。

――でも、1985年のプラザ合意で円高にどんどん振れて、国内で作っていたら商品の価格が高くなって、売れないから、海外に出ていったという経緯があると思うんですが……。

 だけどね、そこのところも、考え方としては「安く作って、売れるようにする」ではなくて、「付加価値のあるものを作る」になればいいんです。1ドル360円から100円になっても、3倍の付加価値があればペイできる。そういう発想が必要だったと、僕は思います。

 日本の製造業はそれをせずに安易な道を選んだしまった。それが衰退の原因だと僕は感じています。僕の知っているパソコンメーカーも、多くが安易な道を選んで、台湾などに出ていって、結局、パソコン事業はどんどん潰れてしまったのです。

コロナ禍が「日本の製造業」を復活させるチャンスでもある理由

――なるほど。

 日本がやらなきゃいけなかったのは、工場を海外に出すんじゃなくて、台湾でも、ベトナムでもいいから、そういうところから働く人を連れてきて、日本での生産を続けること。これが必要だったと僕は思っています。

 たとえば有田焼みたいなもので、有田焼を作る工程を海外にそっくり持っていったりしないでしょ。やるとしても、海外の人が日本に学びに来て、日本で作る。それを日本の製造業はある時、諦めてしまった。それが一番の問題だと思いますが、今からでも、その軌道修正はできると思ってます。

――「ものづくりニッポン」の根本を忘れてしまった。それが問題だったということですか?

 それは言えるでしょうね。

 日本人の多くは「本当にいいものを作る」というより、みんなが贅沢になって、高い給料に慣れてしまった。だから、単純に「いいものを作る」より、もっと儲けるために安く作れるところにどんどん工場を出してしまった。根本はそういう問題だと思います。

 もともとは「日本で作って輸出する」っていうのが基本だったのに、そうでなくなっちゃったんだから、ダメになるのも当然ですよね。もちろん、中国だってそのうち同じようになってしまうんでしょうけど……。

 今からだって遅くないから、ヨーロッパとか、アメリカで買ってもらえるようなものを日本で作る。そんな形に戻した方がいいと思います。