ビジャイ・ゴビンダラジャンがチーフ・イノベーション・コンサルタントとしてゼネラル・エレクトリック(GE)に招かれていなければ、リバース・イノベーションのコンセプトは誕生していなかったかもしれません。だとすれば、GE社内にはその源流があるはずです。書籍『リバース・イノベーション』の中でも、新興国生まれのイノベーションとして、GEヘルスケアの、中国での超音波診断装置と、インドにおける心電計の事例が紹介されています。

リバース・イノベーション入門編の連載第4回から、前・後編にわたって、GEヘルスケア・ジャパンの執行役員技術本部長の星野和哉氏と、『リバース・イノベーション』日本語版の解説を執筆した慶應義塾大学ビジネス・スクール教授の小林喜一郎氏の対談を掲載します。内側から見たリバース・イノベーションはどのようなプロセスなのか、日本ではどのような成果や苦労があったのか、詳細に伺いました。(構成/渡部典子)

リバース・イノベーションの
原型は日本にあった?

小林 GEの会長兼CEOのジェフリー・イメルト氏が共同執筆した論文(注)を機に「リバース・イノベーション」のコンセプトが広く知られるようになりましたが、GEグループ内では、どのように受け止められていたのでしょうか。

星野和哉(ほしの・かずや)
GEヘルスケア・ジャパン株式会社 執行役員 技術本部長。東京工業大学大学院修士課程修了。1981年4月横河電機製作所株式会社(現横河電機)入社。1982年4月横河メディカルシステム株式会社(現GEヘルスケア・ジャパン)設立にあわせて同社に移籍。GE Corporate Research Centerへの出向、MR技術部長などを経て、2005年より現職。

星野 リバース・イノベーションのコンセプトを知ったのは、世の中と同じく私も論文が出てからです。正直なところ、個人的には、当社が創業した30年前から日本でやってきたことで、今までGE内部で行われてきたことだな、という印象でした。これは、おそらくアメリカでの受け止め方と違うと思います。

 このような印象を持ったのには、GEへルスケア・ジャパンの特殊な生い立ちや歴史が関係しています。当社の母体、横河メディカルシステムは、1982年にGEと横河電機製作所(現横河電機株式会社)の合弁企業としてスタートしました。当時の横河電機は、多角化の一環で医療機器市場に参入し、1976年にGEと販売代理店契約を結んでGE製CT(コンピュータ断層撮影装置)を輸入販売する傍ら、国産の超音波診断装置を独自につくり、CT開発にも着手していました。

 本に書かれているリバース・イノベーションは、もともと技術がなかったインドや中国などの新興国に、新しくローカル・グロース・チームを意識的に立ち上げるアプローチをとっていました。日本はすでに開発や製造を手がけてきた地元企業との合弁から始まったという違いがあります。ただ、本質は同じだと感じます。

小林 インドや中国でのリバース・イノベーションと、1980年代の日本で、重なる部分はどんなところでしょうか。

星野 当時は1ドル約250円の時代だったので、アメリカ人から見ると、日本製品のコストは3分の1。ちょうど今、富裕国の人が中国製品やインド製品を見るのと同じような感覚です。

 それに、当時GEの医療機器部門が本拠を置いていたミルウォーキー製のCTは、日本の病院のニーズに合わない部分もありました。特に都市部の病院は面積上の制約があったので、もっと軽量・小型で、かつ、日本の競合企業に対抗するため、価格を大幅に安くする必要がありました。そこで私たちはアメリカ製CT8800をお手本に、重さは半分、コストも半分、画像と性能はそのままという開発目標を立てて、CT8600を開発しました。

小林 なるほど。当時の日本が新興国と言えるかどうかは別としても、為替状況から大きな価格差があったわけですね。仮にアメリカ製CT8800のコストが1000万円とすると、500万円でつくる感覚になりますね。アメリカ製の装置はだれでも手が届く価格ではなく、サイズも合わなかったと。そこで、半分のコストで画像は同じといった極めてチャレンジングな目標を掲げ、現地のニーズを満たすものをつくる。そういう伝統がすでに日本のGEにはあったのですね。

 国産のCT8600の評判はいかがでしたか。その後、アメリカなど先進国にも広がるという、リバース・イノベーションの「川上に向かって逆流する」現象は起きたのでしょうか。

星野 国内で大変ヒットし、同時に輸出も大幅に伸びました。GEメディカルシステム(当時)のグローバル流通網を通じて、アメリカも含めて世界中で販売されました。

【注】
GEリバース・イノベーション戦略」DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー(2010年1月号)