「旅行ができない世界でも旅する方法」を描いた0メートルの旅 -日常を引き剥がす16の物語-』が、旅好きから大絶賛を受けています。今回は、本書収録の「ある旅」を特別公開。舞台は東京・五反田。の、寿司屋です。(構成:編集部/今野良介)

旅の舞台

寿司が好きだ。そもそも米がうまいし、おまけに刺身は超うまい。それを重ねるなんて、個性が衝突しておかしくなりそうだ。でもメキメキうまいんだ。だから寿司はすごい。寿司 is  King.

五反田駅の近くに「魚がし日本一」、通称「魚がし」という立ち食い寿司屋があって、調子の良い時は昼と夜に行く。手頃な価格でうまい寿司が食えて、少し雑多で気を使わない感じもいい。

魚がしには「LINEクーポン」というものが存在する。LINEで魚がしを友達登録すると、毎週火曜日にクーポンが送られてくるのだ。たとえば「サーモン」のようにネタを指定されて、それを無料で食べられる。ネタは毎週ランダムで、明日は何が送られてくるのかと、ワクワクしながら前日の夜を過ごしたものだ。

しかしそのうち、ただ届いたクーポンに一喜一憂するだけでは物足りなくなった。そうして思ってしまったのだ。

「来週のクーポンを予想できないか?」と。

小さく灯った疑問の火種は、やがて大炎と化して僕の情熱を焚きつけた。この感覚を僕はよく知っている。これは未知の旅への衝動だ。こうして燃え上がった炎は、灰になるまで決して消すことはできない。ただそれに身を任せる。

未来を知るには、過去から学ぶ必要がある。ここから3年間、僕は魚がしのクーポンを毎週記録し続けることになる。

狂気の沙汰

3年間のクーポンの歴史は、大きく5つの時代に別れる。寿司 is Kingであることは明白なため、これを世界史における「王朝」の概念によって説明していきたい。

1.王朝成立前の戦国時代

2015年12月29日。記録はこの年の瀬から始まっている。

最初のクーポンはしめさば。僕は日付と共に「しめさば」とEXcelにタイプする。記念すべき第一歩だ。

2016年1月5日。ねぎとろ
2016年1月12日。まぐろ
2016年1月19日。サーモン
2016年1月26日。えんがわ

きた。最高に好きなネタだ。僕は小躍りで「えんがわ」と記入する。脂の乗ったえんがわは舌の上をすベるように溶けていく。

2016年3月1日。煮あさり。見慣れないやつだ。これまでの傾向として、クーポンには幅広く人気のあるネタが並んでいた。それに比べると、煮あさりは地味に聞こえる。食べてみたが、やはり味も地味である。翌週には「トロサーモン」という高価なクーポンが配布されたが、煮あさりの埋め合わせかもしれない。

こういう感じで毎週クーポンを記録していったが、肝心の予想はまったく当たらない。新しいネタもどんどん登場してくるし、王朝と呼べるような確固とした時代は形成されていない。言うなればネタの戦国時代である。

転機が訪れたのは、半年が経った頃だった。

2016年6月7日。べっとりとした湿気が身体にまとわりつくような梅雨の火曜日。僕は自室でクーポンの記録を穴があくほど見つめていた。

サーモン→まぐろ→しめさば→焼きゲソ→ねぎとろ→トロサーモン→えんがわ→煮あさり。

サーモン→まぐろ→しめさば、その次は……焼きゲソ。

高鳴る心臓の鼓動が、いつの間にか外の雨音を掻き消した。僕は何度も確認した。間違いない。

クーポンに周期性が観測されたのだ。

サーモンから始まるそれはまぐろ、しめさば、焼きゲソと続き、煮あさりまでの約2ヵ月間で1周期を形成している。煮あさりはアンカーとしてまた次のサーモンにバトンを戻し、ぐるぐるとサイクルが回っていくのだ。

3周目に差し掛かった時、仮説は完全に確信に変わった。周期の発見はクーポンの完全予想を意味する。「リーマン予想」ならぬ「クーポン予想」の証明が完成したことに、梅雨の黒雲が晴れたかのような気分になった。

ネタの戦国時代に終止符をうった、サーモンを起点とする周期。

僕はこれを歴史に刻むべく、「サーモン朝」と名付けた。

2.超長期 サーモン朝

まぐろにトロサーモン、そしてえんがわ。サーモン朝の特徴は、人気のネタが万遍なく配置されていることだ。煮あさりだけが気になるが、このラインナップには概ね満足している。

何より、毎回次の予想がピタリと当たるのが楽しい。まるで少し先の未来が見えるかのような、そんな万能感に浸ることができる。同僚に自慢したら「バカなの?」と言われた。サーモン朝を発見したあとも、僕はなおクーポンの記録を続ける。思い通りの結果を打ち込む快感。周期が重ねられる安心感。毎週火曜日は、いつもよりちょっと特別な日になった。

そして1年が経った。サーモン朝の周期はまだ続いていた。全能感に陶酔していた僕も、流石に途中で気づくことになる。これつまんねぇ、と。

そう、予想できる未来はつまらない。ガイドブックの景色を確かめるだけでは楽しくない。先がわからないから夢中になれる。予定通りの結果を記録して、いったい何になるというのか。

2017年2月21日。サーモン朝はついに7周目に突入する。世間ではプレミアムフライデーという政策が始まって、それに合わせて「プレミアムフライデークーポン」が配られるようになった。すぐ終わった。プレミアムフライデーと同じくらい根付かなかった。この頃になると、予想が当たるたび僕はため息をついた。江戸幕府のような超長期政権をぶち壊す、新たな黒船を待ち望んでいた。

2017年4月4日。例年より早い桜が散り始め、道路を薄紅色に染め上げた火曜日。Xデーは不意に訪れた。すでに周期を暗記していた僕は、その日配信されるクーポンが「えんがわ」であることを知っていた。LINEの気が抜けるような着信音がして、目に飛び込んできたのは、えんがわではなく焼きゲソだった。

3.絶対王政 焼きゲソ朝

それは革命だった。1年ぶりの周期崩壊だ。僕の心は激しくざわついた。久しく忘れていた熱い何かが、ゲロを吐くみたいに胸元から込み上げてきて、そのまま口から咆哮として飛び出した。

焼きゲソ!

地味なようで安定の人気を誇る、ダークホース。バーナーでこんがりと焼かれたゲソは、噛むとコリコリと小気味良い音がして、ちょんと上に乗せられたマヨネーズと調和する。

身体がカンカンと火照っていた。これだ。この興奮を求めていたのだ。焼きゲソがサーモン朝を滅ぼしたことで、かつての予想できない未来がまた戻ってきたのだ。僕はあの頃の気持ちを思い出し、襟を正してクーポンの記録を再開する。

波乱の焼きゲソの次は煮あさりで、これは特に感想はないが、続いて「海老」という新しいネタが登場した。1年ぶりの新ネタだ。やはり焼きゲソは、時代に新しい風を吹かせてくれる。

しかし驚きは終わらない。海老のあと、ねぎとろを挟んで現れたのは……焼きゲソ。また焼きゲソだ。そして今度はあなごを挟んで……焼きゲソ。また焼きゲソ!

なんと4度に1回のペースで焼きゲソが現れるのだ。ここまで同じネタが頻繁に登場するのは、1年半で初めてのことである。僕はゴクリと生唾を飲んだ。額にうっすらと汗が滲み、細長い一筋となって流れた。

こいつもしかして……暴君か?

フランス革命が起きて、ロベスピエールによる恐怖政治が始まった。ロシア革命は、その後のスターリンの独裁を招いた。革命はいつだって正義の名の下に行われ、しかし往々にして異なる恐怖も生み出してきた。

僕は魚がしの仕入担当が一時的にイカを買いすぎたのかと疑ったが、それは間違いだった。焼きゲソが焼きゲソを追いかけるような焼きゲソ黄金期は継続し、そしていつの間にか焼きゲソを始点とする新たな周期が出来上がったのだ。

焼きゲソ→煮あさり→海老→ねぎとろ→焼きゲソ→トロサーモン→いか→あなご。

焼きゲソ→煮あさり→海老…間違いなく周期だ。

自身が象徴でありながら自ら権力を振るう、中央集権的な絶対王政「焼きゲソ朝」の誕生だった。「朕は国家なり」ならぬ「ゲソは国家なり」である。僕のLINEは焼きゲソの焦げ茶色で埋まってしまうかと思われた。しかし悪政は長くは続かない。

2017年7月25日。2回目の周期が終わり、みたび登場するはずだった焼きゲソはやってこなかった。焼きゲソ朝は、あっさりと終焉を迎えた。そして焼きゲソに代わって現れたのが、ミル貝刻み軍艦。

……ミル貝刻み軍艦?

そんな寿司が存在していたのか。寿司の世界は広い。ミル貝刻み軍艦の登場は後にも先にもこの日だけで、誰が考えたのか、なぜ社内稟議を通ったのか、多くの謎が残されたままである。

いずれにせよ、暴君焼きゲソの時代は終わった。かつて謎の古代民族「海の民」がミケーネ文明を衰退に追い込んだとも言われるように、ミル貝刻み軍艦とかいう得体の知れぬ怪人が、焼きゲソの短い絶対王政を打ち砕いたのだ。

4.「最後」の王朝 煮あさり朝

2017年9月26日。日差しがイチョウの木々に差し込み、きらりきらりと黄金色に揺れる火曜日。焼きゲソのあとを継ぎ、覇権を握った存在がいた。煮あさりである。

思い起こせば、いつもそこに彼はいた。じっと出番を待っていた男が、ついに頭角を表したのだ。煮あさりはなぜか途中で「煮あさり軍艦」と名前を変えて軍艦化して、どんどん勢いを増していく。そして約半年間という、サーモン朝に次ぐ長期政権を打ち立てることとなった。

しかしこの時代について多くは語らない。地味だから。

記録をとり始めて2年近くが経過していた。Excelシートは100行を越えていて、何度かやめようと思った。しかし偉い人がよく「3年は続けなさい」みたいなことを言うし、なんとか3年、つまり2018年の12月末まではやりきろうと、鉄の意思で記録を続けた。

2018年3月19日。残寒が街路樹を吹き抜け、コートの隙間から入り込んでくる月曜日。「五反田店限定 緑茶ハイ!」と酒をプレゼントする五反田らしいイベントがあったあとで、パラダイムシフトが起きた。

クーポンの配信日が、火曜日から月曜日に変わったのだ。それに伴い、煮あさり朝も崩壊した。最後まで地味なやつだった。物語は12月のゴールに向けて、クライマックスを迎える。

5.そして現れし者

終わりに向けて、僕の好奇心は再燃していた。

クーポンとは本来、マーケティングのための存在だ。僕もかつてそういう仕事をしていたが、マーケティングとはいかに効率的かつ大量に商品を売るかという経済活動である。その意味でクーポンを記録し続けるというのは、対極にある行為かもしれない。しかしだからこそ。クーポンを最後まで見届けることが、ことさら重要なミッションに思えてきた。この活動の果てに、一体どんな結末が待っているのだろうか。

2018年9月10日。残り3ヵ月。不意に「ねぎとろ納豆軍艦」の新しい周期が生まれた。これまでの各王朝の長さを考えると、3年間の記録は「ねぎとろ納豆軍艦朝」で終わるかもしれない。名前が長い。

2018年11月26日。残り1ヵ月。築地市場が閉場して、それを労うイベントが多く開催された。

2018年12月17日。残り2週間。ゴール目前にて、突然周期が崩壊した。これで記念すべき最後のクーポンが完全に予想できなくなった。本当に最後まで楽しませてくれる。

終わりを飾るのは、果たして誰か?
傍若無人の焼きゲソか?
それとも煮あさりか?
はたまた新メンバーの登場か?

12月31日。大晦日の月曜日。

その日のクーポンは……ない。

クーポンがない!

3年間の観測史上、初めてクーポンが配布されなかったのだ。これまで年末であろうと祝日であろうとお盆であろうと、いつの週も僕のLINEにクーポンは届いた。それが最後の最後に裏切られた。3年間幾多の予想を当ててきたが、これには度肝を抜かれた。あまりに不可解な結末だった。

そんな折、とある記事が目に飛び込んできた。「大戸屋」や「幸楽苑」、「ロイヤルホスト」などの外食チェーンが、次々と大晦日の閉店を発表したのだ。そう、働き方改革である。

2018年は働き方改革が盛り上がり、その波が外食業界にも訪れていた。これは推測にすぎないが、魚がしにおいても同様の試みがなされたのではないだろうか?

その証拠に、プレミアムフライデーに築地市場の閉場。これまでもクーポンは時代の流れに敏感に反応してきたではないか。フロンティアたる魚がしクーポンが、働き方改革の波に乗らないはずがない。ていうか担当者も大晦日くらい休んでほしい。全部これで良かったんだ。

こうして、僕の記録は「無」で幕を閉じた。旅の目的地には何もなかったのだ。だが重要なのは過程だった。寿司を追い続けた3年間は、僕の平凡な火曜日を特別な日に変えた。

「大切なものは、ほしいものより先に来た」

漫画『HUNTE×HUNTER』の台詞を思い出していた。

魚がし五反田店には、今でもよく通っている。あれから店舗リニューアルがあって、店内もすっかりお洒落になった。クーポンは相変わらず毎週届いて、僕の胃袋をちょっと多めに満たしてくれる。その度に僕は、夢中になってクーポンを記録し続けた日々を思い出す。

(了)