火の発見とエネルギー革命、歴史を変えたビール・ワイン・蒸留酒、金・銀への欲望が世界をグローバル化した、石油に浮かぶ文明、ドラッグの魔力、化学兵器と核兵器…。化学は人類を大きく動かしている――。化学という学問の知的探求の営みを伝えると同時に、人間の夢や欲望を形にしてきた「化学」の実学として面白さを、著者の親切な文章と、図解、イラストも用いながら、やわらかく読者に届ける、白熱のサイエンスエンターテイメント『世界史は化学でできている』が発刊された。
池谷裕二氏(脳研究者、東京大学教授)「こんなに楽しい化学の本は初めてだ。スケールが大きいのにとても身近。現実的だけど神秘的。文理が融合された多面的な“化学”に魅了されっぱなしだ」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。

マリー・アントワネットも悩まされた、ベルサイユ宮殿の残念な真実Photo: Adobe Stock

古代ローマの上水道と公衆浴場

 水は都市の衛生にも大きく関係している。人類は、川、湖、わき水のそばなど、きれいな水がすぐに得られるところに住んでいた。しかし、文明の発展につれて人口が集中する「都市」が発達すると、その水量では不十分となり、清浄な水を多量に供給する設備―上水道―が生まれた。上水道は郊外の湖や川の上流から、トンネルなどの水路をつくって市内まで導いた。

 最初に大がかりな上水道を敷いたのは、古代ローマ人である。上下水道が整備され、汚物を水で洗い流すトイレもつくられた。驚くべきことに公衆トイレもつくられており、一六〇〇個もの便器が一ヵ所から発掘されているのである。

 紀元前三一二~三世紀、数多くの上水道が建設された。数十キロメートルも離れたところからきれいな水を都市まで引く。おもに地下を水路にしたが、石材やレンガでアーチ構造の水道橋もつくり、さらに水の透明さを保つため、水道本管に沿ってため池やろ過池を設けた。市内の分水施設に到達した水は、公衆浴場・邸宅・公共施設や庶民が水をくみにくる噴水(泉)などに配水されていた。

 古代ローマの公衆浴場は、規模が大きかったし内部は豪華であった。多くの都市に少なくとも一つの公衆浴場があり、社会生活の中心の一つになっていた。体にオイルを塗り、(木製または骨製の)肌かき器で汚れとともにオイルを落とすための部屋、高温水・温水・冷水の浴槽、サウナルーム、ジム、図書室などがあった。講堂では哲学や芸術を論じることができた。

 ところがローマの滅亡とともに、上水道は大部分が破壊され、上水道も下水道も中世末期までの長いあいだ暗黒の状態を続けた。トイレも姿を消した。当時のキリスト教の教えでは、いかなる肉欲もできる限り制すべきと、肉体をさらす入浴は罪深いとなり、公衆浴場、自家風呂は消え失せた。衛生観念が無視されたのである。

 そうなると街はどうなってしまうのか。道路や広場は糞便で汚れ放題。ほんの間に合わせで片付けるだけとなったので地下にしみ込み、井戸を病原菌で汚染する結果になった。貴婦人たちの裾が広がったスカートは、どこでも用を足せるようにするための形である。十七世紀はじめにつくられたハイヒールは、汚物のぬかるみでドレスの裾を汚さないために、考案されたもので、当時はかかとだけでなく爪先も高くなっていた。なかには全体が六〇センチメートルの高さのハイヒールまであったという……。

 また、二階や三階の窓から、しびん(寝室用便器)の中身が道路に捨てられるので、その汚物をよけるためにマントも必要になった。この頭上から降る危険のため、紳士は淑女が道の真ん中を歩くようにエスコートする習慣ができたと考えられる。

 当時は服もあまり洗濯しなかったし、お風呂やシャワーもまったく利用しなかったため、体臭などをごまかすために、金持ちは香水を大量にふりかけていた。香水の発達の背景にはこんな事情があったのだ。